北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

【迎える/向かえる】編集の現場から

基本的な意味

迎える:人や物事がやってくるのをこちらが待ち受ける

向かえる:相手がいる方向や物事のある方向へ進められる

 

現状

変換時に起こるうっかりミス。一般的に「迎える」の使用頻度が高いので、多くは「迎えて」と打つときに「向かえて」としてしまう。つまり「迎えて」がふさわしい文脈で「向かえて」にしてしまうケース。また、使用頻度が少ないながらも「向かえて」がふさわしい文面で「迎えて」にしてしまうときも、同様に間違いに気づきにくい印象です。

 

理由

「迎える」と「向かえる」は、「相手(or物事)/自分」と「来る/行く」という概念に関係する語です。上記の基本的な意味にあるように、このふたつのベクトルは逆です。ベクトルが逆なのに間違えてしまうのは、矢印の方向が違うだけで、大枠は同じ土俵だからですね。

 

対処

使い分けには、以下の2つのポイントがあります。

1. パターンを知る

2. ベクトルを意識する

 

具体的な使用例のパターンは、以下の通りです。

 

・「迎える」の使用例(~を迎える)

駅で友人を迎えてから車で一緒に行く予定だ

新年を迎える準備はできている

彼は野球人生のピークを迎えている

 

・「向かえる」の使用例(~に向かえる)

待ち合わせの約束をした友人がこちらに向かえていないらしい

事態は収束に向かえていると思っていた

病状がいい方向に向かえている感じがしない

 

おさらいします。異字同訓である今回の「迎える」「向かえる」は、入力変換するときに起こるのが特徴です。つまり手書きではあまり起こりづらいように思います。お互い間違った連想をさそう語として存在しているので、パターンとベクトルを意識して、うっかりミスを減らすようにしましょう。

 

【即する/則する】編集の現場から

基本的な意味

・即する:ぴたりとつく、あてはまる

・則する:ある基準や決まりに従う

 

現状

「即する」と「則する」は似た意味を持つ言葉ですが、微妙に意味合いが異なります。「即する」は、「ぴったり合う」というニュアンスに近く、状況や条件に適応するという意味で、「状況に即した対応をとる」「要望に即した商品を提供する」などのように使われます。一方、「則する」は、「規則や法則に従う」という意味で、基準に基づくことを指します。「ルールに則した」「先例に則した」などのように使われます。そして、今挙げた例からわかるように「即する」「則する」は、「即した」「則した」という表現で使われることが多いです。

 

理由

実際のゲラでは「即した」を「則した」に直すときがよくあります。これは注意したいのは「即した」の場合だということです。つまり「則した」がふさわしいところで「則した」を選べていないことを意味します。なので「即した」が出てきたら、文脈的に「則した」でなくてよいか、自分に問いかけてみてください。

 

対処

どちらの言葉も、文脈によって使い分けが可能です。例えば、「~にソクした社会生活を送る」という場合、「即した」と「則した」のどちらがふさわしいかは、前に置かれている文言によって異なります。例えば「現行の法律に」であれば、「則した」を使い、「自認する性別に」であれば「即した」を使います。

 

現行の法律に則した社会生活を送る

自認する性別に即した社会生活を送る

 

「即する」と「則する」は、ミスしがちな同音異義語の代表ではありませんが、気づきにくいペアのひとつです。しかし、使い方を間違うと誤解を招くおそれがある同音異義語、というわけでもありません。なので、使うときに恐れることはありません。うっかり間違わないように、それぞれの意味や出方のパターンを理解しておきましょう。

 

【逸らす/反らす】編集の現場から

基本的な意味

逸らす:別の方向へ向ける

反らす:弓なりに曲げる

 

現状

「逸れる」は、目的語をともなう「逸らす」のときにうっかりミスが起こりやすい。そして、それは身体の部位に関連する表現のときだ。また、「逸らす」がふさわしい入力の場面、変換候補で最初に「反らす」が出てもスルーしまうことがある。下記に列挙した中で「反らす」がふさわしいのは「背中を反らす」「体を反らす」、他は逸らすを使う。

 

視線を反らす(×)→視線を逸らす

目を反らす(×)→目を逸らす

顔を反らす(×)→顔を逸らす

背中を反らす(○)

体を反らす(○)

 

理由

一瞬なんだかみんな良さそうに感じるのは、「反らす」が身体の部位と親しい意味をもつからだろう。

 

対処

今回の同音異義語は、編集の実務作業での傾向でいえば、「反らす」を「逸らす」に指摘する機会が多い。逆の「逸らす」→「反らす」はあまり見ない。無理やり比べてみると、暮らしのなかで、何かを弓なりにする機会よりも、何かを別の方向へ向ける機会のほうが多いだろう。なので、「そらす」は「逸らす」をまず思い浮かべてほしい。

 

ここまで見てきて分かるように、「逸らす」と「反らす」では、間違った連想をさそう語として「反らす」が存在している。こちらが脇役。そして間違う傾向がある主役が「逸らす」のほうだと理解しておくとよい。実際に書いているとき、変換候補からの選択で選ばされていることを自覚できると、うっかり間違う場面は減るだろう。なお、気づいて直すときにどちらの漢字が適切か迷う場面は少ないので、ひらがなにする必要はない。

 

ちなみに今回のようなうっかりミスは、話が逸れて、ではあまり起こらない。話が反れて、だと身体の部位に関連しない表現なので違和感に気づけることが多いからだ。

 

 

7年たって「おわりに」を公開します

2015年3月に電子書籍『文章の手直しメソッド 〜自分にいつ何をさせるのか〜』をセルフパブリッシングとして出して、7年がたちました。これを機に本書の最後に添えた文章「おわりに」をブログ公開します。自分の編集実務を振り返ってメモにしているとき、ふと「本というスタイルで書いてみようかな」と思い立ったのがはじまりでした。ほぼトップダウンでよく書いたな、というのが現在の率直な感想です。(この本の当時の紹介記事はこちら)

 

 

 

『文章の手直しメソッド 〜自分にいつ何をさせるのか〜』おわりに

 

ライティングに関する本は世の中に数多くあります。しかし、文章づくりの実際の手順、完成までの文章に対する接し方について書かれたものを、私は見たことがありませんでした。ましてや執筆者や編集者向けではなく一般の人向け、たとえばブログなどの文字コンテンツを日常的に更新する人、仕事の手段で文章を書くような人に対して書かれたワークフローは皆無に思えます。

確かにそれは当たり前なことなのかもしれません。作業方法は見えませんし、二次的なもの、補完的なものととらえられがちだからです。しかし文章は、書く内容や表現だけをどうにかすれば良いものができるというわけではありません。ライティング術と同じぐらい、文章ワークの面でのプロセス理解が個人向けとして注目されてしかるべきだと考えます。なぜなら、成果物はもの作りの結果でしかなく、そこに到達するまでの時間、対象(文章)に対してどのような働きかけをしていくかが、最もわかりにくいことだと思ったからです。

また、一人で文章を完成させてみないと、どのあたりがしんどくて、どんなところに落とし穴というか盲点が潜んでいるのかということはわかりません。それを明らかにすることは、公私問わず普通に文章をつくるうえで、いかに有益なことかを知ってほしいという思いもありました。

一方で、「独力で完成させたという文章はどのくらいの完成度になるのか」を書き手は知るべきだろう、という気持ちも強くありました。詰めの甘さ、対象に寄せきれていない感は、一人ではどうしても残るものなのです。

自分のなかでの「出来上がり」は、文章本位でみれば完成とはいえないケースがほとんどです。その度に私たちは「どうなったら文章は完成といえるのか」という問いを、突きつけられるのです。

「自分で書いた文章を自力である程度の完成度にもっていく」と本書では繰り返し述べてきましたが、「ある程度」の意味合いを「ある程度までもっていける」ととるか、「ある程度しかもっていけない」ととるかはその人次第です。井の中の蛙大海を知らず。そう思い知ったとしたら、その思い知りは書き手をどんな方向に導くものなのでしょう。私にはいまだ計りきれないところがあります。

 

あなたがもっている知恵の実

「こういうときは、こうすればよい」というものを、何かしら人はもっていると思います。私の場合は、それが文章ワークの手順についてでした。ですので、本書を書いてみました。

「もう少しあんなふうにしていれば、こんなことにはならなかったはず」ということを前もって知っていることの大切さは、歳を重ねるほどみんな理解しているはず。しかしあらかじめ準備することを、毎日すべてのことについてできるわけではありません。人にはそれぞれ事情があり、優先しているものが違います。

情報としての知識だけが辺りを覆い尽くしています。日々流れるニュース、私たちは何を思えばいいんでしょう。おおざっぱにいうと、何かの当事者とそれを見ている呑気な他人で世界はまわっています。ずっとどちらかが続くということはありません。人が奥歯を噛みしめて黙り込むのを自分が見て、「他人の振り見て我が振り直せ」を思えることが、いつか何かの役に立つのかもしれません。

失敗などで知恵が身につくことも多いものです。多くの場合、それは教訓としてですが、後悔をした分だけ人の経験値は上がります。そのようにして知識は知恵となって初めて力をもつのです。そして、だれかに言われて自分がもっていた価値に気づくときもあります。自覚するか、指摘してくれる人が周りにいるか、どちらかでありたいものですね。

「誰でもできるけど、誰もまだやっていないもの」があったりしませんか。生きている人が各自ひとつだけでも、そういう知恵の実みたいなものを世界に発信しつづけたら何かが変わってくるんじゃないか、そう信じているのかもしれません。

好き嫌いを超えて、少しずつ有機的にむすびつき、そんなものが各地でまだらに存在し、時がゆるやかに包み込む。そんなふうになれば、私たち個人は焦らず生きられ、世界の社会はもう少し豊かになるのかもしれません。

 

 

 

 

 

「喩える」にも光をあてて…という話

世間に「例える」という表記が普通に使われるようになった経緯を少しさぐってみる。

というのも書籍の編集実務という仕事柄、「たとえる」という語の表記はずっと気にしてきた。何度ゲラに指摘してきたことだろう。普通の暮らしのなかでは「例える」が通常運転であることは承知している。大人になってからも「学校では『例える』でしか習ってきてないよね」という声を耳にする。確かにそうだよなあと思いをめぐらせつつ、これはどういうことなのだろうという疑問はいつもあった。

 

 わたしたちが使う漢字の読み方には音読みと訓読みがあり、これを音訓という。「新しい国語表記ハンドブック」(三省堂)という本で例という漢字をみてみる。音読みは「レイ」、訓読みは「たとえる」で、使い方には比喩としての「例える」「例え」、例示としての「例えば」が列記されている。配当学年は小学4年で、当用漢字表(1946年内閣告示)、常用漢字表(1981年内閣告示)の頃から運用されている字種である。

 2010年にはいわゆる「新常用漢字表」が告示された。196個が新しく加わり、このとき初めて常用漢字になった字種のひとつに「喩」がある。しかしこの漢字の音訓はなぜか音読みの「ユ」だけが載り、訓読みの「たとえる」は載らなかった(使用頻度の高い熟語である比喩の「喩」を常用漢字にしたかっただけなのか)。

 わたしはこの採用の仕方は社会に誤解を生むのでやめたほうがいいと感じている。それは「たとえる」の表記は「例える」がふさわしいと思ってしまう誤解である。テレビや新聞、ネット記事などで「例える」は使われていて日ごろ目にする機会は少なくない。またスマホやPCの入力文字の変換候補で最初に「喩える」「譬える」が出てくることもまずない。画数が多い漢字は自然と敬遠される傾向にある。常用漢字表は社会生活における漢字使用の目安を示す以上の役割を果たしていると思う。

 問題なのは「喩」がせっかく新常用で選ばれたのに訓読みとしての「喩える」が外されたこと。外された理由はわたしにはわからないけれど、常用漢字「例」に同じ読みの「例える」がすでにあてられていることが関係したのではと推測はできる。ただもしそうだとして天秤にかけたのなら採用するのは「例える」でなく「喩える」のほうではなかったか。なぜなら、あるものを説明するときに他の近しいものになぞらえるという意味の「たとえる」の表記は、本来「喩える」「譬える(譬は常用外の漢字)」のどちらかがふさわしいとされているからだ(日本国語大辞典の精選版では「たとえる」を引くと「譬・喩」で立項されていて「例」は含まれていない)。

 ちなみに「『異字同訓』の漢字の使い分け例」というものが2014年に文化庁から発表されていて確認してみる。ここには常用漢字の使い分けが用例とともに説明されているのだが、「たとえる」の項目はなかった。もしもここに使い分けとして「例える」と「喩える」が並んでいたりすると、それならなぜ喩の訓読みが載っていないのかということになるので音訓の取捨選択に一貫性はあるといえる(同じ意味で使うので使い分けの必要なしと判断したのだろう)。皮肉な言い方になるけど「喩える」を積極的に押さない状況はうまく整えられてきたともいえる。

 

 本末転倒な状況、つまり本来ふさわしいとは言いがたい表記「例える」が世間に浸透していることの経緯をさぐってきたわけだけど、調べてみてわかったのは古くは昭和のころからわたしたちは「例える」で来ていることだった。今に始まったことではなく新常用でも変わらないのを理解したのである。

 気持ちを切り替えると、課題はこれからどうなっていくかだ。というか、どうなりもしないだろうけど「喩える」の認知が上がらないまでも、「例える」だけでなく、ひらがな表記の「たとえる」が浸透してくれないかなとか、例の訓読みとしての「例える」は喩の「喩える」に譲り、例示の意味の「例えば」に専念させてみてはどうだろうかとか、いろいろ個人的に思うところはある。

いずれにしろ「例」「喩」ともに常用漢字の仲間である以上、今後も矛盾をかかえながらの状況は当分つづくだろう。

 

アウトロダクション 〜推敲の終えどきをさぐる〜

イントロダクション、そして4回に分けて考えてきた推敲の終えどきに関する分類を振り返ります。

 

進捗について

iPhoneのデフォルトアプリ「テキストエディット」に、新規で「推敲の終えどきをさぐる」と入力したと思う。昨年の11月のことだ。ある話題に対して自分がどれほど興味があるのかときどき試す。年が明けて、この興味は映画『イコライザー』での「完璧より前進」というフレーズをきっかけに動き出した。

2月初め、ケース分類の元となる時間と削りの類型を簡単に表にした。テキストエディットからオープンソフトLibreOfficeWriter)への移行は2月末。このあたりが、全体を固めていくための舵を切るタイミングになった。詳細が詰められていないところがまだらにある時期には、途中アウトライナーで階層をつくり、構成などを確認した。

わたしはこの一連の記事を、半分は思いつくまま無邪気に、半分は自分のプロセスに対するこれまでの理解を更新できたらいいという思いで書いた。それはケース分類として実を結び、3月下旬から週一度のペースで公開していった。プロの書き手なら数日で書いてしまう分量だったかもしれない。

 

 

4つのケース分類の内容

 

・時間的な制約がない場合

1.削れない→寝かせる

削れるようになったら、2.

2.削れる→手直し

終えられるようにするため、3.

 

・時間的な制約がある場合

3.削れる→削る(推敲の終えどき)

4.削れない→お手上げ(悪いほう)or推敲の終えどき(良いほう)

 

 

書きながら気づいたのですが、推敲の終えどきを区別するケース分類が、推敲を終えるまでのゆるやかなステップになっていました。

1.寝かせる→2.手直し→3.削る

の順序で完成の手前に行きつきます。

自分の立ち位置を確認する際に活用してみてください。といっても、実際はそんなにうまくいくはずがありません。うまくいくはずはないのだけれど、うまくいかないと思うきっかけにはなるかもしれません。

 

おさらいも兼ねて、それぞれのケースでやってはいけないことを列挙しておきます。

 

1.時間があるのに寝かせないこと

2.自覚できたことをそのまま放置すること

3.削れるのに削らないこと

4.うまくいかなかったとき、振り返りを怠ること

 

収穫について

文章は常に最適を求めている。推敲の終えどきをさぐるなかで「完璧より前進」が意味するものは、自分のプロセスに対するこれまでの理解を更新するうえでも、何歩か前進した。

この一連の記事も、生まれた文章がたどるプロセスのパターンからのがれることはなかった。自分のプロセス理解を更新するなかで鮮明になったのは、自分が時間を駆使して思考を行ったり来たりするタイプということだった。書いたことばを直すことで新たな理解を得る。書きさしの文章に手を加える作業自体がわたしにとっての書くことで、その書くことがたのしいと思える瞬間が何回かあった。

それは、削りに覚悟はいらないこと(ケース1.)に気づいたときであり、二通りある削れないの理解(ケース4.)が深まったときであり、今回書き上げてみた収穫となった。

一方、いつどのように自身に制約をかけていくかの判断のむずかしさも再認識した。とはいえ、記事をアップするたび、その感覚に迷いはなくなっていった気がする。書いてきた文章と自分の気持ちの組み合わせで、舵を切るタイミングはうまれていた。

文章を書きはじめるとき、どんな内容になるかは読めないし、プロセスに必要だと思う時間も読めない。それでもわたしの不安は次第にやわらいだ。その都度「ここまで来たか」を繰り返し、文章の成長をしっかり実感できたからかもしれない。

 

コラム〜推敲の終えどきをさぐる〜は、今回で終了です。一連の記事は参考になりましたか? 推敲が終われば、次に整える作業が待っています。

 

 

 

*2021年5月10日 加筆修正しました

 

完成なのか終了なのか 〜推敲の終えどきをさぐる〜

それでは4つのケースのうちの4つめ、最後になります。文章についてプロセスが言えることがいくつかあります。

 

ケース4.

時間的な制約がある場合で、なおかつ文章を削れない

 

文章を削れないにも以下の二通りがあります。

・削り終えて、もう削れないのか

・寝かせが足りなくて、まだ削れないのか

まずこの見極めは重要です。

 

執筆作業は時間的な制約がないと完成には至りにくいのですが、時間的な制約があれば完成に至るかというと、必ずしもそうとはいえません。時間に追われることになる提出期限や締切は、完成に向けて良いほうにはたらくことも、悪いほうにはたらくこともあります。今回は便宜的にこのふたつを区別して、削れないことをテーマに推敲の終えどきをさぐります。

 

制約が良いほうにはたらく場合

時間的な制約が良いほうにはたらくときについて、まず見ていきます。このケース4.の良いほうは、「削り終えて、物理的にもう削れるところがない」というニュアンスで、推敲の終えどきです。書きすすめることで考えが整理され、内容の輪郭が決まり、無駄なものが削ぎ落とされた文章が目の前にあります、しかも時間的な制約の範囲内で。なぜうまくいったのでしょうか。

 

・自分のプロセスに関心をもつ

うまくいくと、削れることや残すことを自然に考えるしくみとなる時間のしばり。これを、執筆を前進させるための推進力にできるかの目安は、完成させるために他の可能性を諦められるかどうかだと思います。舵を切るとき、とくに内容の輪郭が決まってくることは大きいでしょう。書いた文章に関心をもちつづけ、文章にとって適切なタイミングで舵を切れた結果だと思います。

とはいってもわたしの場合、こうしたからうまくいったというのは正直ありません。今回は制約をかけるタイミングがよかったんだろうなと、終えてみて認識する程度です。書いていく文章と自分の気持ちの組み合わせに任されていることが多いからでしょうか。たまたまうまくいき、書けたもので良しとしていることがほとんどです。

ただ、切り替えの見極めは遅れがちなので、そうならないように気をつけています。ここでいう切り替えとは、思考の流れの延長にある推敲から、文章を固める推敲への移行です。言い換えれば、デジタル的なものからアナログ的なものへと切り替えることであり、具体的には書いているツールをMacのテキストエディット(長文になりそうなときはアウトライナーをつかう)からオープンソフトLibreOfficeWriter)に変えます。文章の表現や構成の固まり具合をみて判断し、これ以降、内容の軸や構成はできるだけ動かさない段階に入ります。

 

一方、時間的な制約は悪いほうにはたらくこともあります。推敲の終えどきをさぐるなかで最も避けなければならないのが、このケース4.の悪いほうです。良いほうと同じ「時間的な制約があり、なおかつ文章を削れない」という言葉で示せるのは不思議なものです。完成に向けた実際の状況で天と地ほどの違いがでますが、意識しないと区別できません。

 

制約が悪いほうにはたらく場合

それでは、この悪いほうにはたらく場合を見ていきます。寝かせが足りなくて心理的にまだ削れないうえに時間もないということですから、文章としてはお手上げです。お手上げとは、心理的にまだ削れないときに、物理的にもう削れないと思い込んで推敲の終えどきを迎えることです。文章にとって適切なタイミングで舵を切れなかった結果といえるでしょう。本人には、時間的な制約が悪いほうにはたらいたという感覚はないかもしれません。

準備不足での時間切れは挽回するのが困難です。イメージしていた完成には至らないことになりそうです。推敲の終えどきはあくまで見通しの立て方次第なところもあり、その前提あっての時間的な後押しだと思います。完成ではなく終了という状況が間近にあるということは、なんらかの理由で見通しが甘く、時間に追われたということです。しかし時間に追われたといっても、手探りで向き合うしかないときは少なくありません。なにかヒントをさがしていきましょう。

 

・自分の傾向や癖との向き合い方

書くことは基本ひとりの作業です。人にはそれぞれ自分のやり方があると思います。うまくいかなくて他人のやり方が参考になることもあるでしょう。自分の傾向や癖に目をつむりたくなる気持ちは理解できます。しかし単に良い悪いだけで判断しないほうがよいと思います。逃れられない自分の習癖への対処は感覚的なものを含みますので、即断は禁物です。

わたしの場合、一度に書ける分量が少ないという特徴があります。早めに着手すれば、そのあとは断続的でよいことにしています。思いついたことは頭の片隅ではなく、とにかく早い段階で自分に見えるように文字化しておきます。そして執筆後半、思考停止になるのを見越して定期的に寝かせる時間をとります。それでも漠然とした不安がぬぐえないときは、誰かに相談して方向性などを早めに修正すべきです。

ポイントは「早めに」のところだと思います。ここは当たり前すぎて見過ごされがちなところです。書きすすめるほうを安定させたいという気持ちが勝るためか、まあいいやと相談を後回しにしてしまう。そして後回しにすればするほど時間的な制約がのしかかり、相談する気持ちがさらに失せる。うまくいかないとき、わたしはだいたいこの後ろへずるずるいくパターンです(しかも後からしか気づけない)。そして悪いパターンにはまると、冒頭に示した二通りある削れないの見極めもあいまいになります。

 

・後からやってくる理解

間違った成功体験とはいかないまでも、たまたま問題が起きなかっただけかもしれません。まずさに気づかないことが重なると、あるとき立ちすくむことになります。

きっと失敗から学べる機会はあるでしょう。ただ、ややこしいのはわたしたちは失敗からしか学べないことと、失敗したからといって必ずしも学べるわけではないことです。教訓にすることしかできないし、気づかないとやり過ごすことさえできない。

終了したあとでも、今更なことをゆっくり振り返る時間がとれれば、いつ何をすべきだったか明らかになることもあるでしょう。より深い理解は後からやってきます。執筆後半をどんな心持ちで臨み、どんな推敲の終えどきを迎えるか。プロセスをたどることで自分の書き上げ方の傾向や癖を知り、じっくり対策を立てていくことはできそうです。ここでやってはいけないことは「うまくいかなかったとき、振り返りを怠ること」です。

 

次回は最終回「アウトロダクション〜推敲の終えどきをさぐる〜」で、コラム〜推敲の終えどきをさぐる〜シリーズを振り返ります。