北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

だれが自分の文章を読むのか?

 

顔つきというものは変えられないが、身だしなみは整えられる。

たとえば、家をでる前の身じたくから人に会うまでの時間をすこし思いかえしてみる。会った人に、襟の折れやボタンのかけ忘れ、チャックの閉め忘れなどを指摘されたことがあっただろうかと。最近ではほとんどないと思う。でもやってしまっているときは、すくないながらも確実にある。いつ気づくのかというと、歩いているとき、電車にのりシートに座ったとき、トイレなどで。だれかに言われるのではなく、自分自身でそのまずい状態を知る(気づけないときはそのままということになる)。それはけっこう恥ずかしいこと。でも懲りない。外出するとき、わたしは外見を姿見などの鏡でチェックする習慣があまりないからだろうか。

文章を読みかえすことは、鏡を見ることに近いと思う。書くことも、自分でそれを読むことで完成にむかうから。その完成前の【整える】段階で、何をしたほうがよいのか、何をしないほうがよいのか。今回は、そのあたりを見ていくことにします(前回からかなり日にちが空いてしまいましたが、最終回です)。

 

これまでのおさらい

ある程度まとまった文章を書くとき、どんな自分と向き合わなければならないのか?3回に分けて、課題と対応のしかたをさぐってきました。これまで見てきたことのおさらいを少し。

 

【書く】(2回目)文章を書いているとき、人はどんな心理にとらわれやすいのか?http://bit.ly/2qhmPVX

【寝かす】(3回目)推敲の前に、なにをするのが効果的なのか?http://bit.ly/2r176r2

【直す】(初回)書いた文章を読み返すと、どんなことが起こるのか?http://bit.ly/2rEq9KA

 

初回は【直す】段階である読みかえしで、時間がかかることに時間をかける価値について。信頼を得るというより、信用を失くさないために。2回目は【書く】とき、一度にすべてやろうとしない勇気について。けっきょく文章書きはもの作りなんだということに収斂されていったような気がする。一人でどこまでできるのか。3回目になる前回のこの課題は、文章自体にとってはとてもリスクの高いものでした。本来やるべき他の人の目を通すことを省いて完成を目指しているからです。それはもしかしたら「傲慢」に映るかもしれない。だけど、それを可能かもと思わせるのが【寝かす】という時間。書いたあと、手直し作業の前に「ひと休み」いれるんでしたね。一日で心はふしぎと変化するもの。器をうつしかえるような感覚で、読む側に立てるようになったのではないでしょうか。

わたしたちの日常では文章は入力するもの。それが書くことと同義になって久しい。ざっと書き上がったものを紙に打ち出す人もすくなくなりました。入力作業では推敲過程は残りません。書き直しても書き直しても、目の前にあるのは上書きされた最新のものだけ。この状態をリスクだと認識する感覚は残念ながら失われてしまいました。私たちのとりくみといったら、誤記がないかの確認をおこたらないようにしよう、と自覚することぐらい。そう、大人になると、だれもなにも言ってくれません。独力で何回も読みかえすことで、段階ごとの更新をつみかさねていく以外にありません。

 

最後は文章をかためる覚悟が必要

費やした時間をそのときの気分で無駄にはしたくないですよね。操作環境のなか、プリントアウトは今でも、いいえ、今だからこそ有効な方法です。仕上げの段階では、PC画面ではなく、できれば紙で読むくせをつけておくとよいでしょう。今と違う状態に文章を移しかえることに意味があります(おそらく苦い発見がありますよ)。

それでは文章の完成間近、【整える】段階ではどのように読みかえしていくのでしょう。ここまでくると仕上げるのが目的になるので、文章の内容からはなれて、つらなった文章の見た目、スタイルや読みやすさに意識をうつしていきます。ゴールが見えて駆け足になりがちなところですが、そこを堪えてひとつずつ仔細にみていく。【直す】ときにでた直し間違い、直し漏れをひろいつつ(よく出ます)、以下のふたつを心がけることが大切です。文章の体裁をそろえて、かためるための具体的な作業と意識になります。

 

・この段階でやるべきこと(【書く】段階で後まわしにした作業が中心です)

漢字である必要のないことばをひらがなにする

カタカナ語や送りがなの表記のばらつきをそろえる(置換作業で表記を統一してもよい)

〉〉〉置換したら、かならず最初から読み返す。

 

・この段階でやってはいけないこと

あとから思いついたアイデアや情報を書き足すこと(を、やってはいけない)

〉〉〉書き足していなくても書き直したら、すぐアップしない。読みかえして、直すところがなかったらアップすると決めておく。

 

これらを踏まえて、最後に以下のことに思いをいたしてもらいたい。

 

読み手が不快に思うこと、不利益をこうむることはないだろうか。

 

もし、ありそうなことに気づいたらどうすればよいのか。そのような場合は、アップを翌日以降にのばすべきです。信用や信頼を失わないために、再考の時間をとりましょう。

最後まで油断は禁物。なぜ同じ文章を何度も読みかえすのか。それは異なる視点を得る可能性があるからかもしれません。だれが自分の文章を読むのかを意識するだけで、書いたものの「身だしなみ」のきちんと感はぐっと上がるはず。すくなくとも清潔感をもつことはできるでしょう。

もの作りの観点から、まとまった文章をそれなりの品質に仕上げる方法をさぐってきました。今回が最終回となりました。最後までのおつきあい、ありがとうございます。

 

 

*2017年5月27日 加筆修正しました。

 

Amazon.co.jp: 文章の手直しメソッド: 〜自分にいつ何をさせるのか〜 eBook: 北原 帽子: Kindleストア

 

【押さえる/抑える】編集の現場から

基本的な意味

押さえる:動かないようにする

抑える:くいとめる

 

・現状と理由

この異字同訓は意味の重なる範囲が広いため、使い分けがむずかしい。ゲラでは「押さえる」にすべきところが「抑える」になっているケースが目立つ。また、反対の意味になる場合もあり、注意が必要な他動詞どうしのペアです。

 

・対処

基本的な意味から派生して、押さえるには「とらえる」(プラス)の意味がある。抑えるには「抑制」(マイナス)の意味がある。このように反対の意味になる場合の使い分けは、下記の例を参考にしてください。

 

売れ線を押さえた品ぞろえ(◯:売れ線がある)

売れ線を抑えた品ぞろえ(△:売れ線はあまりない?)

 

酸味を押さえた仕上がり(△:酸味がある?)

酸味を抑えた仕上がり(◯:酸味はあまりない)

 

おくりがなにも注意したい。押さえるは「さ」をおくりますが、抑えるは「さ」をおくりません。

 

使い分けに迷う場合には、どのようなときでも「おさえる」とひらがなで書くとよいです、とはいきません。なぜなら、上記のように反対の意味になるときがあるからです。漢字にしないといけないペアもあるのです。どちらの漢字をつかうのがふさわしいか、文脈から判断してください。

 

文章と教育

 小中高と作文の授業を受けたことがあっただろうか。思い出せる限り、ない。たしかに感想文を書く機会はあった。多くあった。名著や課題の本などを読み、書く内容は自由だったと思う。だけど小学生のころといえば、なにか「よいこと」を書かなければならないという精神的な切迫感しか記憶にない。あのころの自意識過剰な自分は、それでもなんとか思いついたものをかっこうよく文章にしたことだろう。中学では提出して返ってきたものには、読点の有無や位置が直され、文章の最後に先生の感想が添えてあったように思う。高校になると、そこにABCDの評価も加わった。

大人になって思うのは、

・あの頃はかならず自分の文章を読んでもらえるのはしあわせなはずだったのだけど、その感覚がなかった

・言えばきっとおしえてくれただろうに、文章の書き方を教えてもらうという発想がなかった

ということ。

書いている文章を途中で誰かに読んでもらい、指摘をうけ、手直ししていく訓練を義務教育のうちにしておきたかった。いまの子たちはどうしているのだろう。なぜそんなふうに思うのかというと、教育で自然と身につけられることがあると思うから。実社会にでれば、なにを書くかの大枠は決まっている場合も少なくない。どうすれば興味をもって読んでもらえるかが大切になってくる。そして、義務感で書くのはしんどいものだ。なので、もし文章教育というのがあれば、基礎となるのは内容よりもその見せ方になると思う。つまり構成などについての簡単なメソッド(型)の体得ということになるだろう。その体得で、自分事(伝えること)が他人事(伝わること)になるプロセスが理解しやすくなると思うからだ。このプロセス理解による物事の相対化は、自分のアピールが前提の異文化同士のコミュニケーションには欠かせないものになってくるはず。そのためには、理解のある大人が必要になるだろう。幼いうちに英語を中途半端に身につけてもしかたがない。まず日本語の文章力を鍛えるためのしかけを提供することで、子どもたちの表現欲求に刺激を与えられるのではないだろうか。文章を書くたのしさが身についていたら、そのさき乗り越えられることもあるだろう。大人になったら、文章は自分で仕上げるのが基本になる。誰も助けてはくれない。自分で自分をすくってあげるしかない。半面、書くことで自分がととのえられる作用もあるはず。文章にしておくと、振り返ることができる。気持ちの整理や伝達に有効な手段のひとつになる。もちろん、それはまわりの人の力も借りながらになるだろうけど。

 

【対価/代価】編集の現場から

 

このふたつは同音異義語ではありません。

代価(だいか)と対価(たいか)。 

「代価」の意味で、「対価」を使っているひとが多い印象がある。

たとえば「だれがその対価を払うのか」は、「だれがその代価を払うのか」である場合が多い。

・だれがその代価(代償、犠牲の意)を払うのか

これが辞書的には正解。だけど、なぜだかあまり見かけない。

 

また、それとはちがう意味で「対価を支払う」を使用していることもある。

・労働の対価として給与を支払う

これを、途中の目的語を省略しているような文(以下の文)として見かけることがあるのだ。

・労働の対価(として給与)を支払う

 

ほかの例では以下のように。

サブスクリプションという用語の説明で)

・その都度購入するのではなく、体験・サービスなどの期間利用で対価を支払う方式

この場合、見合った金額・相当の金額、という意味を対価に込めたいのだろう。

 

だけど、これらの表現には違和感がある。以下で説明するように、基本、対価は払うものではなく、受け取るものだからだ。

 

代価の意味:支払う代金、払う犠牲・代償

対価の意味:受け取る利益・報酬

 

「代価」ということばの不人気を受けて、「対価」の新しい使い方が常態化しつつあるなかで、どのように対処していけばよいのか。

「代価」を使いたくなければ、言い換えができるときは、代金(ほかにお金・金額・料金などでもよい)、犠牲、代償に置き換えるとよいかもしれない。こちらのほうがわかりやすいし、誤解をうまない。

 

 

*2017年2月7日 加筆修正しました

 

Amazon.co.jp: 文章の手直しメソッド: 〜自分にいつ何をさせるのか〜 eBook: 北原 帽子: Kindleストア

 

推敲の前に、なにをするのが効果的なのか?

 

わたしたちは、常に現在の自分が過去の自分を上書きして暮らしています。それは無意識におこなわれていて、おそらく今の自分を肯定していく土台になっている。「頭を冷やしてよく考えなさい」といわれることを繰り返しながら、人は成長するものなんだろう。


ライティングのプロセスも、これと似ているなあとかんじることがある。たとえば、昨日書いた文章を今日の自分が読みなおすとする。本当は目の前の文章をすんなり肯定したいところで、うーむ、なにか違うと思うのだけれど、どうしたものか。書き手が読み手の感覚に近づくのは案外むずかしいもの。だけどそういういきづまりの場面は日常で普通にあるだろう。そして再構築していくいきづまりのなかにこそ、わたしたちが見落としがちな何かしらのヒントがかくれているような気がする。今日はそのことについて書こうと思います。


ボブ・ディランから学んだこと

先日放送されたNHKスペシャル「ボブ・ディラン ノーベル賞詩人 魔法の言葉」では、彼の創作の過程がすこし垣間見えた。これまで残してきた膨大な言葉群。びっしりと書き込まれたルーズリーフの束、滞在したホテルのメモ用紙への走り書き。そんな思いつきを書き留めた類を目の当たりにして、わたし自身いろいろ考えるところがあった。

 

彼はなぜあんなに書き散らすのか。そしてなぜ多くを語らないのか。自分のなかでもなにか大切なことに気づきそうだとぼんやりかんじるだけで、その日は過ぎる。2、3日してシャワーをあびているとき、ふと「量と質」ということばがうかんだ。生みだすことと生みだされたもの。自分に応えるために必要な感情と理性。出しきる感情と捨てる理性といったらよいのか。本人の思考が作品として結実するってこういうことなんだって腑に落ちた気がする。

 

たとえば、書くことから読みかえすことへ。伝えることから伝わることへ。それは自分の内との時間なのか目の前の言葉との時間なのか、じつは向きあうことになる対象自体が異なっていたんだと気づく。ここは押さえておきたいポイントになりそう。

 

メモすることからはじまって仕上がるまで、それはひと続きではないのだ。他のなにかと混ざり合うことで文章はブラッシュアップされていく。事情により、自分だけでこれを完成させる場合はどうしたらよいのか。書籍の編集フローで考えると、著者一人で文章を仕上げるのはありえないことかもしれない。編集するひとも校正するひともいない状況。内容的にも品質的にも致命的なリスクになるだろう。

 

だけど、いまは個人が発信するツールを選べる時代。また、いきづまったときでも冷静になれるしくみは、本人が意識的でありさえすれば作り出せるものではないのか。だから制約のあるなか、一人でどこまでできるのかという課題を考えることは、けして無駄ではないと思うのです。

 

なにもしないことが果たす役割

そこで、ライティングの工程でこれだけは外せないということがあるんじゃないかと考える。それは寝かせではないかと思う(もちろん他人に見せる目的でないもの、日記などの類は別です)。実際は文章ではなく、自分自身を寝かせることになる。これがなぜ外せないのか。他人の目を取り込めないまでも、異なる視点を得られる可能性が高くなるからだ。いつまでも書き手のものではいられない。何かするってわけではないから見過ごされがちだけど、文章にとっては成長するチャンスがおとずれているのか。それはどういうことなのだろう。もうすこしつっこむ。

 

工程のなかで休み(冷却期間)をはさむというこの「時間の経過」がうまく作用すると、一人でも文章の完成度を高めることができる。寝かせること自体に本人の思考から文章そのものへの橋渡しの役割があるようだ。また、自分のなかに残っている感情や記憶を薄めてくれるので、頭がいったんリセットされる効果がある。それは文章を前に進める再起動エンジンのようにもなる。反対にこの認識を欠いたまま一気呵成に作業をすすめると、いつまでももやもやは解消されないだろう。

 

文章にしたいという欲求と文章を完成させるという目的。振り返ると、このふたつを区別することの大切さを、ディランが残したメモの映像を観ていてぼんやりかんじていたのではないか、と思います。前々回、前回からもんもんとしていた、書くことと読むことを区別する納得できる理由。今回、書きながらわかってきたことが収穫でした(いつも後からわかる)。

 

自分が書いた文章の再構築、その際の冷却について説明してきました。寝かせという対処方法をおこなう理由、それは以下のふたつにまとめられるのかもしれません。

 

・量から質への転換

・リセット効果

 

これにより、読み手目線の本格的な推敲へ舵を切りやすくなるのではないでしょうか。

 

最後までのおつきあい、ありがとうございます。

 

 

*2017年5月24日 加筆修正しました

 

 Amazon.co.jp: 文章の手直しメソッド: 〜自分にいつ何をさせるのか〜 eBook: 北原 帽子: Kindleストア

 

文章を書いているとき、人はどんな心理にとらわれやすいのか?

 

まとまった文章を一本仕上げるのは、誰だっていつだって至難の業。いざ書き出してみると、わたしたちの頭はマルチタスク状態になるからです。発想、表現、構成、品質など、やることは考え出したらキリがない。書きあぐねるときもあるでしょう。わたしもいちいち立ち止まっていました。文章を積み重ねる意識がつよすぎるのか、なかなか次の行に進めないのです。あなたには同じような経験はありませんか。もしあれば、いまから話すことをいつか思い出してほしいと思います。

 

後まわしにする勇気

前回、早めに取りかかろうという話をしました。文章は読み返すことで完成へとむかうもの。「あと一日あればなあ」などと後悔しないよう、読み返す時間を確保しておくために早めに取りかかることが肝要です。だけど書いておいて何ですが、早めに取りかかっても放置する時間が長かったら意味がありません。時間の使い方、配分を考える必要があります。わたし自身、日々の編集実務で、文章のブラッシュアップには適時適作業というものがあると感じています。

今回は書く作業段階での心得について話してみたいと思います。書く段ではいろいろな作業の同時並行が可能です(いろいろできてしまうから悩むともいえます)。書くことのほかに、書きながら読むことで直したり整えたりできますよね。しかし、書くときにはなるべく他のことはせず、書くことに徹するべきです。たとえば、てにをはの確認、あやふやな固有名詞、文章のつながり、表記のばらつきなど、気になるのはわかりますが、自分はいつもひとりしかいません。それらはとりあえず横において、頭のなかにあるイメージのアウトプットを優先してみる。そして一度で仕上げようと思わないこと。推敲はあとでいくらでも可能ですから。


できることでもやらない。


これが、書くときのちょっとしたコツ。意識しないとできないことです。たとえば書きながら読んで直しもおこなうと、書き上げたところで自分が書いた文章を「もうだいじょうぶ」とか、「もう見たくない」という心理がはたらきやすくなる。つまり、読み返すモチベーションが下がるのです。また、PC画面などでの入力書きですと、前にあったものが残りません。どこをどう直して目の前にあるかたちになったのかが、わかりにくかったりします。

このような事態を回避するために、読む作業を後ろの時間にゆだねてみましょう。後ろの時間のほうが、冷静な目で文章と向き合うことに適しているので、書き直して良くなるのが実感できる。最終的に文章の完成度がワンランク上がります。

 

最後までざっと書き上げてみよう

それでは実際「書く」と「読む」とを区別する意識をもつと、具体的にどのような効果があるのか。それは以下のふたつにまとめられると思います。

 

・一度にやることを減らせるので、書きすすめることに集中できる(ひとつのことに専念しやすい)

・ほかのプロセスを意識できるようになり、視野がひろがる(全体を把握しやすい)

 

書き出したら、この効果を利用して(自分をだましながらでも)最後までざっと書き上げるイメージが、けっこう大切です。途中、もんもんとする時間もあるかと思います。順風満帆にはいきませんよね。だけど、それは自然で普通なことと割り切り、積み重ねる意識はほどほどにしましょう。

文章づくりはもの作りなので、順をおって段階ごとに向いている作業をするとよい。繰り返しになりますが、文章という代物は一気に仕上げることができません。書く・寝かす・直す・整えるの思考ユニットが地味な威力を発揮します。今回はこのプロセスのなかの最初、書く段階についてのお話でした。

最後までのおつきあい、ありがとうございます。

 

 

*2017年5月23日 加筆修正しました

 

 Amazon.co.jp: 文章の手直しメソッド: 〜自分にいつ何をさせるのか〜 eBook: 北原 帽子: Kindleストア

 

 

書いた文章を読み返すと、どんなことが起こるのか?

 

仕事柄、日々著者の推敲の過程を目の当たりにしていると、気づかされることがたくさんある。今回は、文章をつくるときは「できるだけ早めに取りかかろうよ」ということについて話してみたい。

 

時間がかかること、時間をかけること

まとまった文章が出来上がるまでにはふたつのしくみが動いていると、わたしは思う。ひとつは「書き手と文章」のしくみ(伝える内容をどのように表現するか)。もうひとつは「文章と読み手」のしくみ(品質をどのように担保するか)。

文章を一本仕上げるためには、どんなステップをふめばよいのか。一度に書き上げておしまいという人は少ないと思う。文章は一筋縄ではいかない。そこで、仕上げるまでのタイムラインを考えてみる。書く、寝かす、直す、整える。時間がかかる段階とはどこなのか。それはまず書くことだろう。もちろん、その人の能力、文章の落ち着き先としての媒体、そして書く文章量にもよる。同じように、直すときと整えるときも時間がかかる。書いた文章は自分の鏡となり、不思議と粗がみつかるものだ。読み返すたび、手直しするところがでてきて終わりがない。なんだ、全部時間がかかるじゃないかということになる。何にどれだけ時間がかかるかは、人によって環境によってちがってくるだろう。とても当たり前のことだ。

そこで視点をずらして考えてみたい。制作過程には、「時間がかかる」のではなく「時間をかける」段階というのがあると思えるからだ。それは文章を寝かせたあとの時間。書いたものを読む作業には注意力がいる。後まわしにしていた固有名詞などの確認も、ここでやる。はっきりいってめんどくさい時間なんだけど、不十分な確認作業では意味がない。もちろんまったく読み返さないのは論外だ。ていねいにひとつひとつチェックしていくことに価値がある。時間をかけること自体が大切で、ここでは個人の能力の有無はあまり関係ない。

さらに考える。そんな手直し時間はプロセスの本質的にはどんな意味があるのだろうか。

 

それは、書いていたときの理解を超える、ということ。

 

書いているときは常に次の行は存在していないが、読み返すときはすべてある。部分を部分としてとらえる段階から、部分を全体からとらえる段階へ。「何をどう伝えたらいいのか」モードから、「ここはもっとこうしたら伝わる」モードへ。この転換は日頃当たり前すぎて気づいているひとは少ないのではないかと思う。書く行為よりも読み返すという状態への対処で、文章はグンと成長するもの。読み返すことで、書き手なのに読み手の心境に近づける。そして言いたいことの輪郭をクリアにするように書き直すことで、伝えたいことが伝わるようになるのだ。その際にちょっとしたコツがあるので知っておいてもらいたい。

 

それは、文章をできるだけ削ること。

 

プロボクサーが試合前に減量するように、不要なことばを取り去っていく。まちがっても書き加えることが推敲の最終目的ではない。肉付け作業は、できれば寝かせるまでにやっておくことだ。ここはみんな勘違いしがちなところ。うまく書けるひとは削ることがうまい。書籍編集のワークフローでもそれをかんじる場面が多い。一方ここ最近、再校という整える段階になっても文章をたくさん書き加えてくる著者が少なくない印象もあるのだけど、これはまた別のはなし。

 

理解してもらうことはむずかしい

すこし整理する。プロセスのしくみのなか、直すことに時間をかけよう。そして文章量をへらすことを意識しよう。このふたつが、ここまでにわたしが言いたいこと。なぜそうするのか、理由を考えてみる。それは品質が保たれるからかもしれない。文章の信頼感ともいえるだろうか。文章量のほうはどうだろう。削るといっても、必要なものは削れない。残った言いたいことの重みが増すからか。読み手はまどろっこしい文章から解放されるだろう。

わたしたちは思いを文章にしたいという欲求から、まず表現のしくみに頭がもっていかれやすい。一方、プロセスは目に見えない。文章を書きはじめると、品質のしくみが抜け落ちやすくなる。あなたは書くことを、なんとなく進めてなんとなく終えてしまっていないだろうか。また、そうしがちなのはなぜだろう。

 

それは、書くことで読んだ気にもなれるからだ。

 

そして締め切りなどがあるせいで、見直す時間は省かれるのが常だ。だけど、それはまずい。見落としているミスがひろえない。頭でしっかり書いている時間帯ほど、勝手に誤記もおぎなってしまうから。このリスクを文章を書き慣れていない人に理解してもらうのは、けっこうむずかしい。確認に費やした時間は無駄になることがあるかもしれない。でも、それらは本当に無駄なのだろうか。代わりに得られるものがあるのではないだろうか。経験則から自分が当たり前だと思っていることだからこそ、むずかしい。いやいや、言わなくてもわかるでしょう、と言いたくなるのだ。だけど、同時にもう少しうまく説明したいとも思う。たとえば初めてのところに行くときは、少し早めに家を出たりしますよね。文章をつくるときも、いつも初めてのところに行くようなもの。不安がくる。この不安は謙虚さからくる、あっていいものだと思う。謙虚さが誠実さをうむ。そして誠実さは信頼感につながる。時間をかけるために、できるだけ早めに取りかかろう。とても当たり前のことなのだ。

書くことと読むことを区別すると、そのぶん時間はかかる。当たり前のことに落ち着くことで、この文章を読んできたひとの多くは落胆するかもしれない。「なんだよ、早めに取りかかろうかよ」と。しかし、本当はそう思うひとにこそ、わたしは今回のテーマを届けたかったんだ。地味にスゴイことを納得してもらいたかった。うーん、わたしが伝えたいことが伝わったでしょうか。とても大切なことだと思うので書いてみました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

*2016年10月8日 加筆修正しました

*2017年5月25日 加筆修正しました

 

 Amazon.co.jp: 文章の手直しメソッド: 〜自分にいつ何をさせるのか〜 eBook: 北原 帽子: Kindleストア