北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

【渡る/亘る】編集の現場から

〜は長期に渡る

〜は広範囲に渡る

〜は多岐に渡る

公私に渡り〜

細部に渡り〜

 

上のような使い方は、テレビの画面などではよく見かける。しかし使い分けるのなら、これらはすべて正確には「亘る」のほう。「亘る」をつかうところで「渡る」になっているのが常態化している背景には、「亘る」が常用漢字でないことが影響しているもよう。使い分けたい人は以下のイメージをヒントにしてみてください。とくに意味をもたせる場合でなければ、どちらもひらがなで対応するとよいです。

 

渡る:ある地点からある地点へ移動するイメージ

亘る:すみずみまで広がるイメージ

 

 

 

気づけなかった同音異義語: Kanji and Typos
 

 

 

 Amazon.co.jp: 文章の手直しメソッド: 〜自分にいつ何をさせるのか〜 eBook: 北原 帽子: Kindleストア

【伺う/窺う】編集の現場から

・伺う

聞く、尋ねる、訪ねるの謙譲語

・窺う

様子をみたり、機会をねらったりすること

 

ゲラでの指摘では「伺う」を「窺う」に直すときが多い印象。たとえば「顔色を伺う」としているのをよく見かける。おそらく一般的に「窺う」の存在感がうすいんだろう。機嫌の場合は「伺う」だけど(ご機嫌伺い)、顔色は「窺う」のほうになる。間違いやすいので注意したい。文章の読みやすさを優先して、どちらのケースでもひらがなで「うかがう」としている著者の方も少なくない。

 

 

 

気づけなかった同音異義語: Kanji and Typos
 

  

 

 Amazon.co.jp: 文章の手直しメソッド: 〜自分にいつ何をさせるのか〜 eBook: 北原 帽子: Kindleストア

 

【半面/反面】編集の現場から

よくあるのが、「半面」をつかったほうがよいところで「反面」にしている例。とくに接続詞的につかう場面では気を配りたい。著者の方でも、きちんと使い分けているときが少ない印象がある。そんな似たものどうし。

 

・「片方で」「一方で」の意味でつかう場合

「〜である。半面、〜でもある」

例文 このような使い分けはどうでもよいと思う。半面、考えると確かに区別できるような気もする。(反面でなく、半面をつかったほうがよい文章)

 

・プラス面とマイナス面で対比する場合

「〜である反面、〜である」

例文 便利である反面、リスクもある。

 

*新聞界では、「反面」をつかう場面でも「半面」で統一しているところがある。

 

 

 

気づけなかった同音異義語: Kanji and Typos
 

 

 

Amazon.co.jp: 文章の手直しメソッド: 〜自分にいつ何をさせるのか〜 eBook: 北原 帽子: Kindleストア

【お話をする/お話しする】編集の現場から

意外と知られていない、送りがなの有無について。取り上げるのは「おはなし+する」の使い方。どういう場合におはなしの「し」をおくるのか、おくらないのか。表現のしかたは決まっていて、多くの著者も下記のように使っている。参考に。

 

・【お話】が名詞のとき、「し」は付けない

お話をする

・【お話】が動詞のとき、「し」を付ける

お話しする

 

些細なことかもしれないけど、この使い分けをおぼえておくと、もう悩むことはない。

 

「よければ、お話ししていただけませんか?」(動詞)

「すみません、いまはお話をすることができません」(名詞)

 

 

 

気づけなかった同音異義語: Kanji and Typos
 

 

 

Amazon.co.jp: 文章の手直しメソッド: 〜自分にいつ何をさせるのか〜 eBook: 北原 帽子: Kindleストア

【震える/振るえる】編集の現場から

変換ミスの典型。誤りで多いのが、「震える」の意味で「振るえる」としてしまうケース。「振るえる」という文字列が、小刻みに動くこととの親和性を感じさせるのかもしれない。「ふるえる」と打つと推測変換で「震える」が第一候補で必ずくるようにできないものか。ちなみに他動詞「震わす」「振るわす」での間違いはほとんど見ない。

 

 

 

気づけなかった同音異義語: Kanji and Typos
 

 

 

Amazon.co.jp: 文章の手直しメソッド: 〜自分にいつ何をさせるのか〜 eBook: 北原 帽子: Kindleストア

 

【読了】ナタリーの人が書いたライティング本

 

日頃、好きなアーティストのインタビュー記事などを読ませてもらっているナタリー。今年(2015年)の8月に刊行された唐木元 『新しい文章力の教室 苦手を得意に変えるナタリー式トレーニング』(発行・インプレス)を読了。おもしろかったので思ったことを書いておきます。

ポップカルチャーに関するニュースサイト「ナタリー」の記事の品質はどのように保たれているのか?

本書は、この問いに対する十分すぎる回答でした。

 

〇文章に「ストレス」をあたえる?

感想の前にライティングに関する私なりの経験則を話しておこうと思います。仕事柄、ジャンルを問わず書籍単行本の「著者」といわれる方の文章を少なくない量読んできました。書ける著者はどんな推敲をしているのか。ひととおり書いたあと、文章に対してどんなはたらきかけをしているのか、どうやってブラッシュアップしているのか、理解しているつもりです。

推敲は重要な作業ですが、この段階で効果的なのは、自分以外の人に一度あずけることだったりします。そもそもすぎる話に思えるかもしれませんね。しかし自分の手から一旦離れてみて、初めて文章は鍛えられていく。自分以外の視点をもつことは、遠回りにみえて文章改善への最短経路といえるでしょう(もし誰かに読んでもらえないのなら、自分が読み返すために寝かせる必要があります)。目が変わることでミスが見つかりやすく、なによりも文章にストレスをかけられるのです。ん、ストレス?と思うかもしれません。これは、負荷のことです。文章の生成を人の成長過程にたとえるとわかりやすいかもしれません。幼い文章を大人な文章にするための試練だと思ってください。

それではこのようなストレス視点を踏まえて、「ナタリー記事の品質はどのように保たれているのか?」を考えてみましょう。


〇誰かに読んでもらう環境づくり

本書を読み終えて、とくに興味深かったのは1章、2章あたり。ナタリーという会社は2段階の環境づくりがなされているのかなという印象をもった。いや、二重の円といったほうがわかりやすいか。

ひとつめの大きい円は、組織的な取り組みとして。たとえばこのような文章から。

社内で「唐木ゼミ」と呼ばれている新入社員向けのトレーニングを繰り返すうち、わかってきたのは、職業ライターなら無意識にやっている当たり前の思考プロセスが、彼らには備わっていないということでした。(「はじめに」より)

また、1章の最後「作文の完成度はロングテール」という項目では、一人前の記者になるには書き直しがなくなる日を目指して何回でも推敲させる、という趣旨のことも書かれています。つまり、ナタリーでは記事をつくる作業プロセスのなかで、書いた人以外の誰かに読んでもらうことが徹底されていたのです。それが文章の品質が保持されていた理由でした。事実を伝えていくことに軸をおき、限られた時間のなかでニュースサイトとしての信頼性を確保するためには理にかなった方法だといえるでしょう。

大きな円の中にあるふたつめの小さな円は、個人的な取り組みとして。

文章がつくられていく作業プロセスが個人の思考プロセスにもとめるものは何なのか。いつでも修正可能なデジタル社会が浸透してきたからか、事実誤認をふくむ明らかな間違いを残さないという、最低限の品質に気を配る人は少ないように思います。しかし本書はこのことに待ったをかける。いくつかのルールを守り、ルーティン化することが大切と説く。読みすすめるとみえてきたもの。たとえば個人の思考プロセスに関しては、以下のようにふれられています。

修正したら必ず冒頭から読み返す(2章「読み返して直す」の終わりより)

なぜこんな当たり前のことをわざわざいうのでしょうか。それは文章は最初から順を追って読む性質のものだからです。また、品質確保のために最初の読者は書いた自分自身であるべきだからです。

実際、意識してやれている人はそう多くないと思う。自分の文章は書いたら愛着がわくもの。誰しもがもつ欲求です。できれば書き直したくないという気持ちがはたらきます。しかし一方、読者の読み心地にこだわると、もっと伝わるほかの表現があるはず。そうかんがえると愛着は邪魔なだけ。このようなジレンマを解消するひとつの方法が「ほかの誰かに読んでもらうこと」です。ジレンマ状況からいかにうまく離れられるか。なにも自分だけでかかえる必要はないのです。文章に対していつどのようなストレスをどれだけ与えていけれるか。作業プロセスからのこのような問いかけは推敲段階では欠かせません。それはなぜか。かけた負荷が文章の付加価値、ナタリーの場合ひいては会社の価値にいつか変わるからではないか。私はそう思います。

唐木さんは試行錯誤の下積み経験から、文章の鍛えかたの重要性を痛感してきたんじゃないかな。文章力の鍛えかたというより、文章そのものの鍛えかたを。「唐木ゼミ」をやってきた理由もそこらへんにあるんじゃないか。そうでないとライター集団をかかえた現場の取り組みとして、速さを追求しつつ、記事の信頼性を確保することは相当困難だと思うのです。

 

〇リーダビリティーの前に

ちなみに本書は、読者に「完読」させることをテーマにかかげています。完読とは、最後まで飽きさせずに読んでもらうこと。一冊の本を読ませることと一本の記事を読ませることを同列にあつかうのは少々おおざっぱすぎるかもしれません。本が長距離走とすれば、ナタリーなどのウェブ記事は短距離走のようなところがある。使っている筋肉はおそらく違う。しかし、書かれたものに対する信頼面での読み手の期待は一緒ではないだろうか。目立たないが校閲は本来書き手からすれば作業プロセスのひとつ。おそらく媒体うんぬんの問題ではないんだろう。

ここでは取り上げませんでしたが、もちろん実践的な文章テクニックも3章、4章を中心にのっています。他人の文章も手直し(添削)してきた著者の推敲指南はどれも具体的。現場で書きつづけてきた人の生の声がここまで反映されたライティング本は、私の知るかぎりAmazon.co.jp: 20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書): 古賀 史健: 本以来じゃないかな。

コラムからナタリーのポリシーがもつ意味合いを知ると、タイトルにある「文章教室」以上の内容になっていると思うのは、きっと私だけではないでしょう。なんていうか、読みやすいわりに奥行きのある本でした。

 

唐木さんのこれまでのナタリー運営についての詳細を知りたい方は、下記サイトも参考に。
東京編集キュレーターズhttp://tokyo-edit.net/archives/31069454.html

 

「詫び訂」のあるサイトはなぜ信用できるのか?

 

あなたはネットでサイトの善し悪しをはかるとき、なにを拠りどころにしていますか。私はサイトの信用性をみるとき、「詫び訂」があるかどうかを判断のひとつにおいています。これからその理由を説明していこうと思います。

〇「詫び訂」とはなにか?

まず「詫び訂」とはなにか。それは間違えたときにいれる、お詫びと訂正のこと。よくある「お詫びして訂正します」という文言です。

人は間違える生きもの。たとえば文章を書いているときには、数字や固有名詞の事実関係で書き間違いや記憶ちがいなどがふつうにあります。見つかると慌ててしまいますよね。下調べをしていても間違うときは間違います。時間に追われているとその発生頻度はさらに高まります。

〇間違うことを前提にする

間違いに気づいたらどうすればよいのでしょう。大切なのは、それを認めること。しかし、なかなかできないものです。消したり、書き換えて知らん顔することもできますからね。正直にその都度訂正し、詫びを入れる。そして訂正したことの明示をしておく。もちろん明示すればいくら間違えてもよいということを言いたいのではありません。慎重になる姿勢とそれでも人は失敗してしまうものだという諦観の両方をもつということ。その意味でいえば「詫び訂」のあるサイトは、間違うことを前提にしているのではないかと思うのです。想定外のミスが起こることを想定内にしている。書籍や雑誌などの紙媒体では、そのへんとてもシビアです。この「詫び訂を入れる」という積極的な行為をウェブでおこなうとはどういうことなのか。おそらく謙虚さからくるもの。その謙虚さが信用する根拠となるのです。いちど冷静になれる場所で相手の立場に立ってみる。間違うことと間違いを認めないこと、どちらのほうがダメなのかを考えることが大切です。

「詫び訂」のあるサイトはなぜ信用できるのか。理由を覚えておいて損はないでしょう。