【決済/決裁】編集の現場から
基本的な意味
決済:お金を支払う
決裁:下の者が出した案の可否を上の者が決める
・現状と理由
同音異義語による変換ミスの典型ペアです。編集の現場感覚では、「決裁」をつかう場面で「決済」にひっぱられるものが多い印象です。「決裁」のほうが世間的にはなじみ薄なので、いざ使うときにもってこれないのかもしれません。基本的な意味をくらべてみると間違いそうにないのですが、どちらもビジネスシーンで使われやすいのが特徴です。進めている案件の確認でつかうことが多いでしょうか。「ケッサイはいつ?」「ケッサイがまだなんです」これでは前後の流れがないと、どちらかはわかりません。
・対処
「ケッサイする」といった場合、決済なのか、決裁なのか。決済はお金そのものが対象だし、決裁もお金がからみやすいことば。ではどのような意識をもてば間違いにくいのか。なかなかうまい説明が見つかりませんが、以下の語が頻出例です。ことばがもつイメージをつかんで、使い分けの参考にしてください。
・決済
現金で決済する
決済サービス
モバイル決済
決済資金
決済日
・決裁
案件を決裁する
決裁を仰ぐ
決裁する稟議書
決裁書類
(決算書とも混同しがち)
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だれが自分の文章を読むのか?
顔つきというものは変えられないが、身だしなみは整えられる。
たとえば、家をでる前の身じたくから人に会うまでの時間をすこし思いかえしてみる。会った人に、襟の折れやボタンのかけ忘れ、チャックの閉め忘れなどを指摘されたことがあっただろうかと。最近ではほとんどないと思う。でもやってしまっているときは、すくないながらも確実にある。いつ気づくのかというと、歩いているとき、電車にのりシートに座ったとき、トイレなどで。だれかに言われるのではなく、自分自身でそのまずい状態を知る(気づけないときはそのままということになる)。それはけっこう恥ずかしいこと。でも懲りない。外出するとき、わたしは外見を姿見などの鏡でチェックする習慣があまりないからだろうか。
文章を読みかえすことは、鏡を見ることに近いと思う。書くことも、自分でそれを読むことで完成にむかうから。その完成前の【整える】段階で、何をしたほうがよいのか、何をしないほうがよいのか。今回は、そのあたりを見ていくことにします(前回からかなり日にちが空いてしまいましたが、最終回です)。
これまでのおさらい
ある程度まとまった文章を書くとき、どんな自分と向き合わなければならないのか?3回に分けて、課題と対応のしかたをさぐってきました。これまで見てきたことのおさらいを少し。
【書く】(2回目)文章を書いているとき、人はどんな心理にとらわれやすいのか?http://bit.ly/2qhmPVX
【寝かす】(3回目)推敲の前に、なにをするのが効果的なのか?http://bit.ly/2r176r2
【直す】(初回)書いた文章を読み返すと、どんなことが起こるのか?http://bit.ly/2rEq9KA
初回は【直す】段階である読みかえしで、時間がかかることに時間をかける価値について。信頼を得るというより、信用を失くさないために。2回目は【書く】とき、一度にすべてやろうとしない勇気について。けっきょく文章書きはもの作りなんだということに収斂されていったような気がする。一人でどこまでできるのか。3回目になる前回のこの課題は、文章自体にとってはとてもリスクの高いものでした。本来やるべき他の人の目を通すことを省いて完成を目指しているからです。それはもしかしたら「傲慢」に映るかもしれない。だけど、それを可能かもと思わせるのが【寝かす】という時間。書いたあと、手直し作業の前に「ひと休み」いれるんでしたね。一日で心はふしぎと変化するもの。器をうつしかえるような感覚で、読む側に立てるようになったのではないでしょうか。
わたしたちの日常では文章は入力するもの。それが書くことと同義になって久しい。ざっと書き上がったものを紙に打ち出す人もすくなくなりました。入力作業では推敲過程は残りません。書き直しても書き直しても、目の前にあるのは上書きされた最新のものだけ。この状態をリスクだと認識する感覚は残念ながら失われてしまいました。私たちのとりくみといったら、誤記がないかの確認をおこたらないようにしよう、と自覚することぐらい。そう、大人になると、だれもなにも言ってくれません。独力で何回も読みかえすことで、段階ごとの更新をつみかさねていく以外にありません。
最後は文章をかためる覚悟が必要
費やした時間をそのときの気分で無駄にはしたくないですよね。操作環境のなか、プリントアウトは今でも、いいえ、今だからこそ有効な方法です。仕上げの段階では、PC画面ではなく、できれば紙で読むくせをつけておくとよいでしょう。今と違う状態に文章を移しかえることに意味があります(おそらく苦い発見がありますよ)。
それでは文章の完成間近、【整える】段階ではどのように読みかえしていくのでしょう。ここまでくると仕上げるのが目的になるので、文章の内容からはなれて、つらなった文章の見た目、スタイルや読みやすさに意識をうつしていきます。ゴールが見えて駆け足になりがちなところですが、そこを堪えてひとつずつ仔細にみていく。【直す】ときにでた直し間違い、直し漏れをひろいつつ(よく出ます)、以下のふたつを心がけることが大切です。文章の体裁をそろえて、かためるための具体的な作業と意識になります。
・この段階でやるべきこと(【書く】段階で後まわしにした作業が中心です)
漢字である必要のないことばをひらがなにする
カタカナ語や送りがなの表記のばらつきをそろえる(置換作業で表記を統一してもよい)
〉〉〉置換したら、かならず最初から読み返す。
・この段階でやってはいけないこと
あとから思いついたアイデアや情報を書き足すこと(を、やってはいけない)
〉〉〉書き足していなくても書き直したら、すぐアップしない。読みかえして、直すところがなかったらアップすると決めておく。
これらを踏まえて、最後に以下のことに思いをいたしてもらいたい。
読み手が不快に思うこと、不利益をこうむることはないだろうか。
もし、ありそうなことに気づいたらどうすればよいのか。そのような場合は、アップを翌日以降にのばすべきです。信用や信頼を失わないために、再考の時間をとりましょう。
最後まで油断は禁物。なぜ同じ文章を何度も読みかえすのか。それは異なる視点を得る可能性があるからかもしれません。だれが自分の文章を読むのかを意識するだけで、書いたものの「身だしなみ」のきちんと感はぐっと上がるはず。すくなくとも清潔感をもつことはできるでしょう。
もの作りの観点から、まとまった文章をそれなりの品質に仕上げる方法をさぐってきました。今回が最終回となりました。最後までのおつきあい、ありがとうございます。
*2017年5月27日 加筆修正しました。
【押さえる/抑える】編集の現場から
基本的な意味
押さえる:動かないようにする
抑える:くいとめる
・現状と理由
この異字同訓は意味の重なる範囲が広いため、使い分けがむずかしい。ゲラでは「押さえる」にすべきところが「抑える」になっているケースが目立つ。また、反対の意味になる場合もあり、注意が必要な他動詞どうしのペアです。
・対処
基本的な意味から派生して、押さえるには「とらえる」(プラス)の意味がある。抑えるには「抑制」(マイナス)の意味がある。このように反対の意味になる場合の使い分けは、下記の例を参考にしてください。
売れ線を押さえた品ぞろえ(◯:売れ線がある)
売れ線を抑えた品ぞろえ(△:売れ線はあまりない?)
酸味を押さえた仕上がり(△:酸味がある?)
酸味を抑えた仕上がり(◯:酸味はあまりない)
おくりがなにも注意したい。押さえるは「さ」をおくりますが、抑えるは「さ」をおくりません。
使い分けに迷う場合には、どのようなときでも「おさえる」とひらがなで書くとよいです、とはいきません。なぜなら、上記のように反対の意味になるときがあるからです。漢字にしないといけないペアもあるのです。どちらの漢字をつかうのがふさわしいか、文脈から判断してください。
文章と教育
小中高と作文の授業を受けたことがあっただろうか。思い出せる限り、ない。たしかに感想文を書く機会はあった。多くあった。名著や課題の本などを読み、書く内容は自由だったと思う。だけど小学生のころといえば、なにか「よいこと」を書かなければならないという精神的な切迫感しか記憶にない。あのころの自意識過剰な自分は、それでもなんとか思いついたものをかっこうよく文章にしたことだろう。中学では提出して返ってきたものには、読点の有無や位置が直され、文章の最後に先生の感想が添えてあったように思う。高校になると、そこにABCDの評価も加わった。
大人になって思うのは、
・あの頃はかならず自分の文章を読んでもらえるのはしあわせなはずだったのだけど、その感覚がなかった
・言えばきっとおしえてくれただろうに、文章の書き方を教えてもらうという発想がなかった
ということ。
書いている文章を途中で誰かに読んでもらい、指摘をうけ、手直ししていく訓練を義務教育のうちにしておきたかった。いまの子たちはどうしているのだろう。なぜそんなふうに思うのかというと、教育で自然と身につけられることがあると思うから。実社会にでれば、なにを書くかの大枠は決まっている場合も少なくない。どうすれば興味をもって読んでもらえるかが大切になってくる。そして、義務感で書くのはしんどいものだ。なので、もし文章教育というのがあれば、基礎となるのは内容よりもその見せ方になると思う。つまり構成などについての簡単なメソッド(型)の体得ということになるだろう。その体得で、自分事(伝えること)が他人事(伝わること)になるプロセスが理解しやすくなると思うからだ。このプロセス理解による物事の相対化は、自分のアピールが前提の異文化同士のコミュニケーションには欠かせないものになってくるはず。そのためには、理解のある大人が必要になるだろう。幼いうちに英語を中途半端に身につけてもしかたがない。まず日本語の文章力を鍛えるためのしかけを提供することで、子どもたちの表現欲求に刺激を与えられるのではないだろうか。文章を書くたのしさが身についていたら、そのさき乗り越えられることもあるだろう。大人になったら、文章は自分で仕上げるのが基本になる。誰も助けてはくれない。自分で自分をすくってあげるしかない。半面、書くことで自分がととのえられる作用もあるはず。文章にしておくと、振り返ることができる。気持ちの整理や伝達に有効な手段のひとつになる。もちろん、それはまわりの人の力も借りながらになるだろうけど。
【対価/代価】編集の現場から
このふたつは同音異義語ではありません。
代価(だいか)と対価(たいか)。
「代価」の意味で、「対価」を使っているひとが多い印象がある。
たとえば「だれがその対価を払うのか」は、「だれがその代価を払うのか」である場合が多い。
・だれがその代価(代償、犠牲の意)を払うのか
これが辞書的には正解。だけど、なぜだかあまり見かけない。
また、それとはちがう意味で「対価を支払う」を使用していることもある。
・労働の対価として給与を支払う
これを、途中の目的語を省略しているような文(以下の文)として見かけることがあるのだ。
・労働の対価(として給与)を支払う
ほかの例では以下のように。
(サブスクリプションという用語の説明で)
・その都度購入するのではなく、体験・サービスなどの期間利用で対価を支払う方式
この場合、見合った金額・相当の金額、という意味を対価に込めたいのだろう。
だけど、これらの表現には違和感がある。以下で説明するように、基本、対価は払うものではなく、受け取るものだからだ。
代価の意味:支払う代金、払う犠牲・代償
対価の意味:受け取る利益・報酬
「代価」ということばの不人気を受けて、「対価」の新しい使い方が常態化しつつあるなかで、どのように対処していけばよいのか。
「代価」を使いたくなければ、代金(ほかにお金・金額・料金などでもよい)、犠牲、代償のほか、担保、保証、補償に置き換えるとよいかもしれない。文脈によっては「見返り」「相当分」がしっくりくるケースもある。
*2017年2月7日 加筆修正しました
*2022年12月10日 加筆修正しました
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推敲の前に、なにをするのが効果的なのか?
わたしたちは、常に現在の自分が過去の自分を上書きして暮らしています。それは無意識におこなわれていて、おそらく今の自分を肯定していく土台になっている。「頭を冷やしてよく考えなさい」といわれることを繰り返しながら、人は成長するものなんだろう。
ライティングのプロセスも、これと似ているなあとかんじることがある。たとえば、昨日書いた文章を今日の自分が読みなおすとする。本当は目の前の文章をすんなり肯定したいところで、うーむ、なにか違うと思うのだけれど、どうしたものか。書き手が読み手の感覚に近づくのは案外むずかしいもの。だけどそういういきづまりの場面は日常で普通にあるだろう。そして再構築していくいきづまりのなかにこそ、わたしたちが見落としがちな何かしらのヒントがかくれているような気がする。今日はそのことについて書こうと思います。
ボブ・ディランから学んだこと
先日放送されたNHKスペシャル「ボブ・ディラン ノーベル賞詩人 魔法の言葉」では、彼の創作の過程がすこし垣間見えた。これまで残してきた膨大な言葉群。びっしりと書き込まれたルーズリーフの束、滞在したホテルのメモ用紙への走り書き。そんな思いつきを書き留めた類を目の当たりにして、わたし自身いろいろ考えるところがあった。
彼はなぜあんなに書き散らすのか。そしてなぜ多くを語らないのか。自分のなかでもなにか大切なことに気づきそうだとぼんやりかんじるだけで、その日は過ぎる。2、3日してシャワーをあびているとき、ふと「量と質」ということばがうかんだ。生みだすことと生みだされたもの。自分に応えるために必要な感情と理性。出しきる感情と捨てる理性といったらよいのか。本人の思考が作品として結実するってこういうことなんだって腑に落ちた気がする。
たとえば、書くことから読みかえすことへ。伝えることから伝わることへ。それは自分の内との時間なのか目の前の言葉との時間なのか、じつは向きあうことになる対象自体が異なっていたんだと気づく。ここは押さえておきたいポイントになりそう。
メモすることからはじまって仕上がるまで、それはひと続きではないのだ。他のなにかと混ざり合うことで文章はブラッシュアップされていく。事情により、自分だけでこれを完成させる場合はどうしたらよいのか。書籍の編集フローで考えると、著者一人で文章を仕上げるのはありえないことかもしれない。編集するひとも校正するひともいない状況。内容的にも品質的にも致命的なリスクになるだろう。
だけど、いまは個人が発信するツールを選べる時代。また、いきづまったときでも冷静になれるしくみは、本人が意識的でありさえすれば作り出せるものではないのか。だから制約のあるなか、一人でどこまでできるのかという課題を考えることは、けして無駄ではないと思うのです。
なにもしないことが果たす役割
そこで、ライティングの工程でこれだけは外せないということがあるんじゃないかと考える。それは寝かせではないかと思う(もちろん他人に見せる目的でないもの、日記などの類は別です)。実際は文章ではなく、自分自身を寝かせることになる。これがなぜ外せないのか。他人の目を取り込めないまでも、異なる視点を得られる可能性が高くなるからだ。いつまでも書き手のものではいられない。何かするってわけではないから見過ごされがちだけど、文章にとっては成長するチャンスがおとずれているのか。それはどういうことなのだろう。もうすこしつっこむ。
工程のなかで休み(冷却期間)をはさむというこの「時間の経過」がうまく作用すると、一人でも文章の完成度を高めることができる。寝かせること自体に本人の思考から文章そのものへの橋渡しの役割があるようだ。また、自分のなかに残っている感情や記憶を薄めてくれるので、頭がいったんリセットされる効果がある。それは文章を前に進める再起動エンジンのようにもなる。反対にこの認識を欠いたまま一気呵成に作業をすすめると、いつまでももやもやは解消されないだろう。
文章にしたいという欲求と文章を完成させるという目的。振り返ると、このふたつを区別することの大切さを、ディランが残したメモの映像を観ていてぼんやりかんじていたのではないか、と思います。前々回、前回からもんもんとしていた、書くことと読むことを区別する納得できる理由。今回、書きながらわかってきたことが収穫でした(いつも後からわかる)。
自分が書いた文章の再構築、その際の冷却について説明してきました。寝かせという対処方法をおこなう理由、それは以下のふたつにまとめられるのかもしれません。
・量から質への転換
・リセット効果
これにより、読み手目線の本格的な推敲へ舵を切りやすくなるのではないでしょうか。
最後までのおつきあい、ありがとうございます。
*2017年5月24日 加筆修正しました