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北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

文章と教育

 小中高と作文の授業を受けたことがあっただろうか。思い出せる限り、ない。たしかに感想文を書く機会はあった。多くあった。名著や課題の本などを読み、書く内容は自由だったと思う。だけど小学生のころといえば、なにか「よいこと」を書かなければならないという精神的な切迫感しか記憶にない。あのころの自意識過剰な自分は、それでもなんとか思いついたものをかっこうよく文章にしたことだろう。中学では提出して返ってきたものには、読点の有無や位置が直され、文章の最後に先生の感想が添えてあったように思う。高校になると、そこにABCDの評価も加わった。

大人になって思うのは、

・あの頃はかならず自分の文章を読んでもらえるのはしあわせなはずだったのだけど、その感覚がなかった

・言えばきっとおしえてくれただろうに、文章の書き方を教えてもらうという発想がなかった

ということ。

書いている文章を途中で誰かに読んでもらい、指摘をうけ、手直ししていく訓練を義務教育のうちにしておきたかった。いまの子たちはどうしているのだろう。なぜそんなふうに思うのかというと、教育で自然と身につけられることがあると思うから。実社会にでれば、なにを書くかの大枠は決まっている場合も少なくない。どうすれば興味をもって読んでもらえるかが大切になってくる。そして、義務感で書くのはしんどいものだ。なので、もし文章教育というのがあれば、基礎となるのは内容よりもその見せ方になると思う。つまり構成などについての簡単なメソッド(型)の体得ということになるだろう。その体得で、自分事(伝えること)が他人事(伝わること)になるプロセスが理解しやすくなると思うからだ。このプロセス理解による物事の相対化は、自分のアピールが前提の異文化同士のコミュニケーションには欠かせないものになってくるはず。そのためには、理解のある大人が必要になるだろう。幼いうちに英語を中途半端に身につけてもしかたがない。まず日本語の文章力を鍛えるためのしかけを提供することで、子どもたちの表現欲求に刺激を与えられるのではないだろうか。文章を書くたのしさが身についていたら、そのさき乗り越えられることもあるだろう。大人になったら、文章は自分で仕上げるのが基本になる。誰も助けてはくれない。自分で自分をすくってあげるしかない。半面、書くことで自分がととのえられる作用もあるはず。文章にしておくと、振り返ることができる。気持ちの整理や伝達に有効な手段のひとつになる。もちろん、それはまわりの人の力も借りながらになるだろうけど。