北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

こうして誤記はひとつだけ残る(1)

2、3年前になりますが、ある著名な作家が下記のようなことをつぶやいていました。

 

私の本、誤字がいつもひとつだけ残るのはどうしてなんだろうか…

 

編集実務という仕事柄、思い当たることもあり、このつぶやきはわたしの頭の片隅に残った。なぜいつもひとつだけ残るのかの理由はわからないけれど、そのしくみについてはいろいろと考えるようになった。今回は自分なりにその対処方法までをさぐってみます。

 

結論から先にいうと、いちばんの理想は、再校ゲラの段階で「最後のひとつの誤字をみつけられるような状態にもっていくこと」だろうと、いままでの経験から思う。少なくともそれを心がけること。

 

語られてこなかったプロセス上の課題

出版物に誤記が残る原因はさまざまあります。編集実務の面からは(予算不足や時間不足からくる)確認不足や寝かせ不足、直しまちがいや直しもれなどがあるけれど、ほかに忘れてならないのはそれぞれの編集段階における作業の仕方自体だと思う。初校での作業と再校での作業がもつ性格は違う。その違いを意識して取り組まないと、文章の品質面での完成に近づけません。

 

初校は誤字をへらす作業で、再校は誤字をみつける作業といってよいと思う。書かれたものは自他問わず、文章に新しい側面を見出すのは初校で終わりにしたほうがよい。欲張って再校でも初校と同じ意識で作業してしまうと、誤字をみつける作業は読者が負うことになるからだ。

 

詳細は後述しますが、自分で痛い目をみたりして意識的にならないと、文章本位の抑制的な振る舞いというのは身につかないように感じます。このことを作り手としての日々の取りこぼしから学んできたつもりです。自覚するのがなかなか難しいこの課題は、課題としていままであまり認識されてこなかったように思います。

 

再校の段階がもつ役割

・対処方法

それでは自覚するのが難しいなりにどうすればよいのか。前述で理想とした、最後のひとつの誤字をみつけられるような状態にもっていくためには、役割分担を明確にすることがまず必要であり、再校ではクロージングの意識をもつとよいのではないかと思う。

 

知的作業の対象が伝えたいことから伝わるものに舵が切られた時点で、細かい表現修正に対するあきらめが必要になることは知っておいたほうがよい。知識とか教養、好奇心を再校段階でも優先して作業するのは個人的には作り手の過信だと思う。初校の校正技術と違って、能力のあるなしはあまり関係がない。この段階、文章本位でもとめられているのは、俯瞰的な視点からの「つみとり」の知性である。

 

具体的にいうと、「あらたな疑問出し」「新しい表記の統一」などをしないよう心がける。つまり、基本なるべく新しいことには取り組まない。再校は、文章全体の状態を確認する最終とし、仕上げという位置づけで誤字や要らないものの「つみとり」に徹するのです。

 

再校の作業は初校と同じひとがおこなってかまいません。しかし同じようにやってはいけません。ここで初校と同じような取り組みを繰り返すと、さらに問題点を洗い出してマルチに捌く作業が発生してしまうのです。本づくりが終えられないのです(万が一、初校と同じような作業が発生するときは、このあとさらに三校が必要になる)。その結果、ひらがなのミスが本になったときまで残ったりするのです。「~しなければならない」「~であるにもかかわらず」など、日本語の文章にはひらがなが10個ほどつづくことも珍しくありません。読み返したつもりでも、熟語などの意味が濃い漢字のかたまりに目がいくので、ひらがなの誤字をスルーしがちになります。

 

(次回へつづく)