北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

取り組みへのジレンマ

3月に『気づけなかった同音異義語』という本をセルフパブリッシングで出しました。ああすればよかったとか、こうしなければよかったとかがひと通り落ち着き、無風状態がおとずれている。そして、今はある問いがぼんやりと湧き立っている。今日はそのことについて書こうと思います。
 
5か月ほど経って思うことは、わたしは「今を生きているのだろうか?」ということ。日々生活し、散らかり具合はどうであれ、たしかに目の前にある自分のワークをこなすことはできている。だけど少なくとも、わたしは瞬間を生きてはいないなあと思う。経験が今を邪魔したり、心ここに在らずだったり、反応に終始していることも多い。
 
しかしものごとは瞬間に決まる。瞬間の連続が生活だろう。目の前にいる人や目の前にあるものとの向き合い方のはなし。例えば、日々来るメールへの返信。その場でジャッジするものはジャッジして、先送りするものは先送りする。この見極めすらなかなかむずかしいときがある。
 
振り返ると今回、書き上げるのも大変だったが、その前段階、瞬間瞬間の気づきを書きとめるのもしんどかった印象がある(書き留めないと忘れてしまう。そして思い出しにくくなる)。それは手間というより意識の面で。仕事中、同音異義語の「あるある」へのアンテナを常に張っていなければならなくなったからだ。一方、できれば実務に集中したいという思いもあった。
 
このジレンマのなか、ではなぜやりきれたのか。それはわたしの仕事、編集実務に直結する、ある意味特殊な作業だったからかもしれない。アウトプットすることで深まる理解も想像以上だった。納期に追われているときは無理だが、実務の中断というストレスを差し引いても、ミスの出方の濃淡は後学のためになる。つまりアンテナを張ることも、やるべき実務の範疇とみなして、なんとか乗り越えたのだと振り返る。
 
似たような文章で同じようなミスが起こるのをわたしは知っている。その人のクセなのか、誰もがやるミスなのかの判断も、おおかた瞬時につく。編集実務にたずさわる人にしかできないことといっていいのかもしれない。よく考えてみたら、「ほかに誰がやる?」といったものでもあるのだ。
 
一般的には書くときの目的(内容)と手段(表現)でいえば、同音異義語の使い分けを意識したり、それについて調べたりすることはどちらにも遠く、些末的な作業に思えてしまうだろう。書きながら同時におこなうモチベーションが続きにくい部類のもの。そして音読み訓読みふくめて、変換する言葉の海は広く深い。湧いた疑問が時間をかければ解決するわけではない。立ち止まるヒマがあったら文章を少しでも書きすすめていたい、と思う人が大半だ。
 
このジレンマについて、この本を取り上げていただいた倉下忠憲さんのサイト「Honkure」から引用してみたい。倉下さんが取り組むのは執筆作業でわたしとはすこし違うジレンマだが、実務に集中したいという思いは同じはずだ。
 
何冊か本を書いた後で、私はそのアンチョコを作ろうと計画した。誤変換・誤用しやすい言葉をピックアップしてevernoteのノートにでもまとめておくのだ。結局その計画は頓挫してしまったわけだがーーそういう間違いに気がつくのは文章の校正中で、文章の校正中にはあまり他の作業をしたくないからまったく増えなかったーー、本書はまさにそのアンチョコとして機能してくれる。
 
「あまり他の作業をしたくない」というのはほんとうに素直な気持ちで、わたしも理解できる。(なかなかできないけど)実際書いているときは内容だけに集中していい。いちいち「適切なことばが使えているか」は考えなくてよい。これは、やらなくてよいという意味ではもちろんない。書き上げるプロセスの使い方を工夫する。書くときは書くことに集中できるよう、直すときは直すことに集中できるよう、時間をずらすことで対応する。瞬間にミスった操作も、後でゆっくり気づけばよいのである。
 
というわけで、いつもの結論に落ち着いてしまった。これでは「経験が今を邪魔したり」の典型だ。せっかくのオープンマインドな今を邪魔する、経験という名の悪魔だ(もちろん、天使のときもあるけど)。
 
 
*2018年8月18日、加筆修正しました