北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

わからない中で書いてみること

まとまった文章を先がわからない中で書くことがある。頭の中にはイメージやフレーズだけが浮かんでいる。このような状態からでもなんとか形にしていきたい。そんなときはどうするか。今日は、この「わからない中で書く」を受け入れてみる、というはなしをしてみようと思います。

 

たとえば、日記やブログを書くことを自分に課しているとします。日々の暮らしで起こることはそう真新しくないかもしれませんが、気持ちは一瞬一瞬移り変わります。これを一日毎、あるいは定期的に出来事というパッケージにするのには少しコツもいるでしょう。慣れも必要かもしれません。わたしの場合は、これに加えて「きちんと書かなきゃ」という義務感のようなものものっかります。しかし義務感が強まると途端にモチベーションは落ちます。自分の気持ちとの相談、書いている文章は気持ちに近いかどうか、表現の良い悪いや好き嫌いなど、細かいことを考えたらキリがありません。

わたしは学生のころ、頭の中のアウトプットの場面、うまく書きはじめられない問題は不安でしかなかった。そしていろいろ考えるのは好きなんだけど、それがかえって書き上げることをさまたげ、書くことを楽しめませんでした。途中で起こる偶然のひらめきによろこびを見出すこともなかった(そんなことがあるなんて思いもしなかった)。読むときは並んでいる文章を順番どおりに読むので、書くときも順番どおりに書くことは(仕方ないからと)自然なこととして受け入れていたのでした。ただ、その後もふしぎと自分の思考を探りつづけることに飽きもきませんでした。

そのようななかで、2016年前後にアウトライナーというツールがあるのを知りました(いまは実際に使うときだけでなく、「自身で手軽に途中を操作できる」と思える感覚自体が精神的安心につながっている)。まとまった文章を書くとき、最初はメモ書きみたいなイメージで、論理的な積み重ねは(とりあえず)考えなくてよいというのは、わたしの書き出すハードルを下げてくれたと思う。書くことは、ほかのもの作りと違い、もともと気持ちと直結しているので手直ししやすい、という利点があるのは最近になって感じていることだけれど。

文章の手直しといえば、よく思うことがあります。過程にあまり興味が向かない人が多いのはなぜか、ということです。ことばを打つ作業の場合、たしかに過程の課題が目に見えにくいですよね。打った文章の最新のものだけが常に文面に現れている状態だからでしょうか。たとえばメール。LINEの延長のようなかんじで無自覚に使っていると、入力操作や文のつながりに気を留めることは少ない。ある程度まとまった文章量になると課題解決のために読み返しがどうしても必要になる。しかし読み返しを習慣にしていないとミスに気づくことも少ないでしょう。

 

・文章は書くというより、作るもの

編集という現場にしぼって言えば、文章は書くというより作る感覚に近い。書籍制作の場合、思考の流れからのある程度の量の文章化は個人が坦々とおこなう作業だから、ほかの誰かに理解、指摘してもらうにはそれなりに時間がかかるもの。原稿、初校、再校と読み返しに人と時間をかけることで、書いた人の納得感や文章の品質が高まるしくみになっている。結果、成果物としての完成度が増すのです。作る感覚に近いというはなしは書き方や書く量にもよるので断定的な言い方はできないが、それは心がまえという言葉に落ち着きがちな理由でもある。

何につなげたいかというと、これからの人、とくに若い人たちには「わからない中で書く」ことを受け入れてみてほしいということ。文章を書き上げるのは容易いことではない。書き上げるまでのプロセスは手探り状態で、これが読書感想文やレポート課題、月次の報告書など、書くことが義務に近い文章だと、進みは鈍りやすいだろう。しかし自分に合ったツールがあれば「わからない中で書く」ことをスムーズにはじめられるのではないか。たとえば学生のときでも就職後でも、時間的な制約のなかで文章を書く機会は少なくない。制約のある中で自分にどうしたら書いてもらえるのか。人それぞれ書くときの「ふるまい」は異なるが、対応、対処の仕方は似てくるもの。「こんなとき、どうしてる?」「じつは私も」の共有できる世界。私の場合、あせる場面は確実に減った。先がわからない中で書きすすめるとき、順番どおりに書かなければいけないということはない。一度にうまく書こうとしなくてよいのだ。ツールひとつで、いわば「文章のたたき台」が作りやすい環境が手に入ると思えばいい。

 

・書き出せないときこそ

それでは「文章のたたき台」が作りやすいということは、どんな意味があるのだろうか。それは、そもそも「なかなか書き出せない」ときにこそ有効だということ。つまり、気軽に書き出せる気分が生まれやすくなるのだと思う。書きはじめる段階、誰もがさまざまな思いを抱えている。多くのことを一度に同時にやらなければいけないと思う心理がはたらきやすい。書くことに慣れていないと、いつも読んでいる誰かの文章と自分がこれから書く文章とのイメージ落差を感じることがあるかもしれない。文脈でことばの意味は変わるし決まってもくる。最終的には伝えたい内容が相手にうまく伝わる必要がある。人によって、もっといえば個人のなかでさえ、翌日、表現の解釈が違って見えることもあるだろう。書いた文章は今わかっていることが(振り返って)あの時点でもわかっていればと言ってもはじまらない。自分に合ったツールを自分の書く環境に取り入れていれば、いま挙げたような心配や前提は織り込みずみにできるでしょう。

わたしたちはなにかを文章で表現しながら、リアルタイムでそのなにかを自覚するのはどうやらできないみたい。気づきは決まって後からやってくる。なぜ先がわからない中で書くことを受け入れてみるとよいのか。それは「文章を作る感覚」というものを体験するにはもってこいの手段だからだ。

 

 

 

*2022年6月29日 加筆修正しました