北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

こうして誤記はひとつだけ残る(2)

前回から引き続き、編集プロセスからみた誤記が残るしくみをさぐります。

 

例えば、繁盛する飲食店の店員になった自分を想像してみます。営業時間の終わり間際にお客の入店を断るときがあるかもしれない、来てくれたひとに申し訳ないけど。再校の段階というのは、このときの状況に近い印象です。閉店前は掃除の準備をする段階でもあり、行列を捌いていた時間帯の初校とは違う心持ちでいる必要があると思うのです。

 

この切り替えがうまくいくと、再校で最後のひとつの誤字をさがせて、本を読むひとが一瞬目を止めることはなくなるはず。少なくともわたしはそう信じて仕事に取り組んでいます。これは編集段階に応じた作り手のスタンスの問題になります。

 

書き手が文章にできること

一方、執筆の段階でやれることはないだろうか。実際、ゲラになる前、原稿の状態からの影響も少なくないと感じています。つまり、出来上がった本の品質に関する疑問は書き手の意識で解消に向かうこともあるのではないか。品質よりも文章の内容に思考が集中しているときですが、ヒントはどこかにあるでしょう。とりあえず「完全原稿」「原稿整理」という言葉から見ていくことにします。

 

・対処方法

再校ゲラで最後のひとつの誤字をみつけられるような状態にもっていくためには、書き手は完全原稿(推敲のすべてを終えた原稿のこと)で作り手に託すことを前提にしたほうがよい。なぜなら、ここを曖昧にすると、本来の編集作業が後ろにずれ込むことになるからです。

 

最近はウェブでの小説投稿サイトなどが活況を呈していることもあり、目にする原稿のなかには自分で読み返していないのではないかと思えるものが増えた。やるべきことがおこなわれていないと、その分の負担を後ろのひとがしょいこむことになる。手を動かす作業のあとに目で見る作業が待っていることは書く側にも知っておいてもらうことが大切だと思う。文字量が多くなればなるほど大切で、もっというと、原稿整理の作業を前倒しして、書き手の意向を早めに取り込むことが有効です。役割分担の修正といえるかもしれません。なぜなら原稿整理はもともと編集の役割に含まれていたからです。これを少し変えていこうというわけです。

 

なぜ前倒しが必要なのか

ここでいう原稿の整理とは、ふりがなを付けたり(基準と頻度を決める)、字体を決めたり(複数の表記がある漢字を、正字にするのか、俗字のままにするのか)、表記を統一したりする(読みやすくするため、同じ語の表し方をそろえる)ことです。すくなくとも初校ゲラの作業前にある程度おこなわれていると、その本のあるべき姿の方向性が定まり、編集がスムーズに運ぶ(やらなくてもよかった作業を少なくできる)ことが多いです。

 

例えばウェブ連載の記事などでも、書き手と作り手が早い段階で表記の統一などに関するコンセンサスを取っておくことが望ましい。なぜなら連載をまとめて本にしましょうとなったときに、初校で原稿整理をやらなければいけない状況になると、再校で誤字をへらす作業がメインになる。そうなるとやはり本にしたとき誤字は残りやすいからです。というか、前述したように読者によってそれはみつかることになるわけです(みつかったその事実が、書き手や作り手に届くことは残念ながらほとんどありません)。

 

以上、自分なりの対処方法を2つ挙げてきました。今回さぐってきた課題への対処方法は、書き手と作り手が同一の場合でも変わることはありません。大切なことはプロセスの段階ごとに立ち止まり、完成を目指していま何をするべきかを考えることだと思います。前回の冒頭にしめした作家のつぶやきに応えられたかはわかりませんが、完全原稿を前提に初校の前にかならず原稿整理を行い、再校時に作り手の作業者がクロージングを意識してゲラと向き合うことで、完成品から明らかな誤字を根絶できる可能性は増すと実感しています。