北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

下書きと清書 読書感想文の書き方(その1)

何年か前に「文章と教育」という記事を書いた。この延長で読書感想文の書き方というものに関心が向いていた。今回はその書き方(今回最後のほうでは「書き上げ方」「やり方」という言い方になりました)のはなしを中心に、自分のなかでわき起こった考えの行方をさぐっていきたいと思います。

 

読書感想文をとりまく世界

感想文を取り巻く状況はどうなっているかと思い、ネットで「読書感想文」というワードで検索してみる。上位に出てきたサイト「青少年読書感想文全国コンクール」を開く。そのなかの感想文Q&Aで、以下のことを理解した。

・読む本について:電子書籍はダメで、紙媒体の書籍に限定した応募

・書き方について:原稿用紙に書くことが前提の応募

・その他:自筆(手書きのことらしい)での応募が基本(原則、ワープロなどを使ってプリントアウトしたものでの応募は認められない)

読書感想文コンクールの応募は、本を読むことと文章を書くことの2段階作業をへないと達成されない。さきほど理解したようにいろいろと制約もあり、ハードルは高い。

まあ、コンクールに応募するしないは置いておくとして、とりあえず理解したことをふまえて感想文の書き方を考えてみようと思う。例えば、このQ&Aのなかにでてきた「考える読書」というフレーズはなにかヒントになるかもしれない。実際書く段になると、どのようなことがしんどくなるだろうか。

 

さまたげているものは何?

書くしんどさの前に、書きたい気持ちがあるなかでの「なかなか書き出せない不安」とどう向き合うのか、このしんどさが先にある人もいるだろう。

授業で読書感想文などの作文を書かされたとき、よし書くぞと思い立ち、すぐ書き出せるものなのか。少なくともわたしは書き出すのに相当時間がかかるタイプだった。書く時間が決められて清書一回のプレッシャーがきつかった思いがある(消しゴムがあるから書いたものは消せるよねと言う人がいるけど、個人的にはそれとは別次元のことです)。

小学生の頃は書き方といっても、ただ良さそうなことが思い浮かぶのを待っていた感覚が残っている。自分が誰かに伝えたいことなどあるはずもなく、他人の見よう見まねで「~に感動しました」と書いていた記憶はある。

 

自分のなかの新しい変化

さっきのサイトに載っていた「考える読書」というフレーズ、どんな意味で使っているんだろう。確認すると前文にこんな表現がある。

「読書感想文を書くことを通して思考の世界へ導かれ、著者が言いたかったことに思いをめぐらせたり、わからなかったことを解決したりできるのです。(ですから読書感想文は「考える読書」ともいわれます)」

文章を書くとき、考えてから書く人もいれば、書いてから考える人もいるだろう。考えながら書くときもあれば、書きながら考えるときもあるだろう。考えることで思いをうながすことがあるし、思うことで考えが生まれることもあるだろう。正確には実際これらはグラデーションをもって行ったり来たりしているはずだ。

ひとつの感想文をみんなで協力して書くわけにはいかない。自分で決めた言葉をつかい独力で書く。さきほど引用したなかの「思考の世界」を、文字通り「思うことと考えることの世界」という意味だと解釈すれば、自問自答の時間だと置き換えられるだろうか。自問自答の繰り返しでひとつのことを思ったり、くらべて考えたりするからだ。ポイントはおそらく自分のなかの新しい変化に意識的になること。

本の著者はそう言ってるけど、自分はどうしてこう思うのか。自分が書いた文章を読んで新たなことを感じることもあるだろう。自分はこんなことを思っていたんだと、書いた文章から発見することもあるかもしれない。もちろん自分で書いたのに、何を言いたいのかわからないことや思っていたことと少し違うニュアンスになることもよくある。

 

視点を変えてみると…

生きている年数がまだ少ない時期、ことばの引き出しが少ないなかで、感じたことが思いに至り、さらにそこから言葉のふさわしい表現に到達するのに時間がかかる人も大勢いるのではないだろうか。

そもそも文章を書き上げるのに万人にベストなやり方は存在しないだろう。思考の過程は一人ひとり違うからだ。だったら書き上げ方も違っていいはずだと思うのは当然のことだ。しかし書かれる文章のほうからみると、その景色はがらっと変わる。

意識的な人は少ないかもしれないが、文章が書き上がるには完成するまでの過程がある。書いて終わりでなく、書いたものを読み返し直していくことで完成に近づく。読み返すと自分が書いた文章をより深く理解できる。その意識は長文になるほど必要だ。書く内容は人それぞれだろうが、文章完成までの書かれるステップは誰もみな同じようなものになる。つまり書かれたあと、直され、整えられる。

 

温度差、時間差のなかで

そういえば振り返って感じることだけど、学校で文章の作り方を教えてくれないのが不思議だ。作文を書かされる前に、トレーニングとして書き上げる過程を実践的に学びたかった。

いま働いていて、メール文を書いたり読んだりする場面で感じるもどかしさは、伝え方や伝わり方の些細な行き違いであることが少なくない。わたしの場合、例えば自分の気持ちを差し置いて、必要以上に急いで相手の気持ちをおもんぱかろうとしてしまうことがある。まずは自分の気持ちの整理をし、時間をおいて対処するだけで違うのに。

文章は、自分自身のなかで気持ちと書き方がうまくとけあうと良いものが生まれやすい。そこに温度差、時間差があるときは一方が追いついてくるまで待たなくてはならない。いつ呼応するかわからないときもある。小中学生、思春期ならなおさらだろう。

当時のわたしもこの2つの折り合いに気づけなかった。意欲があっても書き出せないのは、ただ書く能力が足りないと思っていた(実際そうだったと思うけど、それだけであきらめるのは違うと歳を重ねてわかってきた)。わたし含め、原稿用紙のマス目を気軽に埋められない人は一定数いるだろう。

 

課題へのアプローチ

このようなタイプの人、あるいはこのように感じるときの気分や時間感覚の個別性が、学校の授業では無視されてきたように思う。時間を区切られ追いかけられると、気持ちとの向き合いをあきらめてしまいやすい。これでは「考えない読書」になりはしないか。つまり、ひるがえってさきほどの引用の話題に戻すと、思考の世界を通して「考える読書」を謳うからには、模索する過程にも言及してほしいのだ。自問自答する過程が考える時間になる。考える時間があれば、自分の気持ちを整理しやすくなるだろう。例えば「~に感動しました」と書いたあとに時間があれば、「ほんとうに感動という言葉でいいのかな?」と自分に問いかけることもできるのだ。

わたしは学校教育の現状を知らない。しかし知らないからこそ言えることがあると思っている。現場では関心をもたれないだろう課題へのアプローチが、ストレートにできたりするからだ。

ここでわたしは、先生は生徒一人ひとりの書き上げ方にすべて対応すべきだと言いたいわけではない。学校では個別性を無視しない取り組み方法があるはずだと思うのです。もしかしたら、これは理想寄りのはなしなのかもしれないけれど。

というわけで読書感想文、もう少し書きやすい方法はないだろうか。次回は少し現実寄りなはなしをしてみたいと思います。(次回へ)

 

 

*2020年7月18日、加筆修正しました