北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

デッドライン 〜推敲の終えどきをさぐる〜

それでは、4つのケースのうちの3つめです。文章についてプロセスが言えることは、いくつかあります。

 

ケース3.

時間的な制約がある場合で、文章を削れる

 

もの作りにおいては完成させることが大切です。修正しやすいデジタル環境にくらべてアナログ環境では粘れませんが、いい意味でそれが諦めになります。わたしはきちんと終えるためにこの種の諦めを使うことにしています。もちろん簡単に諦めることはできないので、削れる状態をつくることで自分を完成に向かわせます。そして削れる状態のときに実際に文章を削る。削りは削って終わりではなく、削ったあと、その文章を読んで終わりにする。完成する感覚を知ったプロセスは、本人に達成感をもたらします。まず、ここでの時間的な制約は完成に向けてどんなはたらきをするのか見ていきます。

 

なぜ時間的な制約があるとよいのか?

時間的な制約は気持ちへの揺さぶりを強めてくれます。時間を設定することで緊張が高まり集中し、はじまったカウントダウンで保留にしていた可能性を忘れさせてくれる。忘れさせてくれることが前進だなんて普通は理解しがたいでしょう。でもそうとしか言えない状況が完成に向けた後半のどこかで訪れます。

切り替えて前進を優先させる場面、時間的な制約をもうけないと完成しないなら、完成したものは不完全です。不完全でよいので、固めるイメージをもつことがポイントです。内容に輪郭が生まれていることに気づいたら、書きたい方向性や書きたいことの軸に意識をもっていきます。このようなプロセスのなかで時間的な制約は、出来上がるために何が削れ、何が残るかを自然に考えるしくみの一部になっています。

今回の「推敲の終えどきをさぐる」でも、書き上げるプロセスのなかに時間的な制約を取り入れています。イントロダクションを公開したとき、今回のケース3.は現在の文章量の半分ほどでした。イントロ公開を見切り発車することで、ケース3.前進の背中を押す心理的な立て付けにしました。書き足していき、現在の倍ほどの分量になり、他の場所への一部移動や軸のクリア化、削りの作業をへて、公開となりました。

 

ここで、削れることになぜこだわるのか自分なりにすこし考えてみました。というのも、文章を削ることで、それが読み手にマイナスにはたらき、誤解や混乱を生じさせてしまうことも十分考えられるからです。そういったことに留意しながら、読み手への信頼とはいわないまでも、向き合い方に思いをめぐらせてみたのです。これは編集実務という仕事での感覚でしかありませんが、著者校を終えたトル指摘が多い再校ゲラを見ると、わたしは少しうれしくなります。この著者は、この本を気持ちよく書き上げられそうだと思えるからです。読み手の理解を信じているというか、読み手の想像にゆだねているというか、そのようなことを感じることもあります。書きものは書き手だけでなく、(間接的ではあるが)読み手も関わりながら完成に至るといえるのではないか。それを生み出す手段のひとつが、削る行為なのかもしれません。

 

というわけで、このケースは推敲の終えどきです。ここでやってはいけないことは「削れるのに削らないこと」です。

 

次回「完成なのか終了なのか 〜推敲の終えどきをさぐる〜」と題して、ケース4.時間的な制約がある場合で、なおかつ文章を削れないときにフォーカスします。