北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

【震える/振るえる】編集の現場から

変換ミスの典型。誤りで多いのが、「震える」の意味で「振るえる」としてしまうケース。「振るえる」という文字列が、小刻みに動くこととの親和性を感じさせるのかもしれない。「ふるえる」と打つと推測変換で「震える」が第一候補で必ずくるようにできないものか。ちなみに他動詞「震わす」「振るわす」での間違いはほとんど見ない。

 

 

 

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【読了】ナタリーの人が書いたライティング本

 

日頃、好きなアーティストのインタビュー記事などを読ませてもらっているナタリー。今年(2015年)の8月に刊行された唐木元 『新しい文章力の教室 苦手を得意に変えるナタリー式トレーニング』(発行・インプレス)を読了。おもしろかったので思ったことを書いておきます。

ポップカルチャーに関するニュースサイト「ナタリー」の記事の品質はどのように保たれているのか?

本書は、この問いに対する十分すぎる回答でした。

 

〇文章に「ストレス」をあたえる?

感想の前にライティングに関する私なりの経験則を話しておこうと思います。仕事柄、ジャンルを問わず書籍単行本の「著者」といわれる方の文章を少なくない量読んできました。書ける著者はどんな推敲をしているのか。ひととおり書いたあと、文章に対してどんなはたらきかけをしているのか、どうやってブラッシュアップしているのか、理解しているつもりです。

推敲は重要な作業ですが、この段階で効果的なのは、自分以外の人に一度あずけることだったりします。そもそもすぎる話に思えるかもしれませんね。しかし自分の手から一旦離れてみて、初めて文章は鍛えられていく。自分以外の視点をもつことは、遠回りにみえて文章改善への最短経路といえるでしょう(もし誰かに読んでもらえないのなら、自分が読み返すために寝かせる必要があります)。目が変わることでミスが見つかりやすく、なによりも文章にストレスをかけられるのです。ん、ストレス?と思うかもしれません。これは、負荷のことです。文章の生成を人の成長過程にたとえるとわかりやすいかもしれません。幼い文章を大人な文章にするための試練だと思ってください。

それではこのようなストレス視点を踏まえて、「ナタリー記事の品質はどのように保たれているのか?」を考えてみましょう。


〇誰かに読んでもらう環境づくり

本書を読み終えて、とくに興味深かったのは1章、2章あたり。ナタリーという会社は2段階の環境づくりがなされているのかなという印象をもった。いや、二重の円といったほうがわかりやすいか。

ひとつめの大きい円は、組織的な取り組みとして。たとえばこのような文章から。

社内で「唐木ゼミ」と呼ばれている新入社員向けのトレーニングを繰り返すうち、わかってきたのは、職業ライターなら無意識にやっている当たり前の思考プロセスが、彼らには備わっていないということでした。(「はじめに」より)

また、1章の最後「作文の完成度はロングテール」という項目では、一人前の記者になるには書き直しがなくなる日を目指して何回でも推敲させる、という趣旨のことも書かれています。つまり、ナタリーでは記事をつくる作業プロセスのなかで、書いた人以外の誰かに読んでもらうことが徹底されていたのです。それが文章の品質が保持されていた理由でした。事実を伝えていくことに軸をおき、限られた時間のなかでニュースサイトとしての信頼性を確保するためには理にかなった方法だといえるでしょう。

大きな円の中にあるふたつめの小さな円は、個人的な取り組みとして。

文章がつくられていく作業プロセスが個人の思考プロセスにもとめるものは何なのか。いつでも修正可能なデジタル社会が浸透してきたからか、事実誤認をふくむ明らかな間違いを残さないという、最低限の品質に気を配る人は少ないように思います。しかし本書はこのことに待ったをかける。いくつかのルールを守り、ルーティン化することが大切と説く。読みすすめるとみえてきたもの。たとえば個人の思考プロセスに関しては、以下のようにふれられています。

修正したら必ず冒頭から読み返す(2章「読み返して直す」の終わりより)

なぜこんな当たり前のことをわざわざいうのでしょうか。それは文章は最初から順を追って読む性質のものだからです。また、品質確保のために最初の読者は書いた自分自身であるべきだからです。

実際、意識してやれている人はそう多くないと思う。自分の文章は書いたら愛着がわくもの。誰しもがもつ欲求です。できれば書き直したくないという気持ちがはたらきます。しかし一方、読者の読み心地にこだわると、もっと伝わるほかの表現があるはず。そうかんがえると愛着は邪魔なだけ。このようなジレンマを解消するひとつの方法が「ほかの誰かに読んでもらうこと」です。ジレンマ状況からいかにうまく離れられるか。なにも自分だけでかかえる必要はないのです。文章に対していつどのようなストレスをどれだけ与えていけれるか。作業プロセスからのこのような問いかけは推敲段階では欠かせません。それはなぜか。かけた負荷が文章の付加価値、ナタリーの場合ひいては会社の価値にいつか変わるからではないか。私はそう思います。

唐木さんは試行錯誤の下積み経験から、文章の鍛えかたの重要性を痛感してきたんじゃないかな。文章力の鍛えかたというより、文章そのものの鍛えかたを。「唐木ゼミ」をやってきた理由もそこらへんにあるんじゃないか。そうでないとライター集団をかかえた現場の取り組みとして、速さを追求しつつ、記事の信頼性を確保することは相当困難だと思うのです。

 

〇リーダビリティーの前に

ちなみに本書は、読者に「完読」させることをテーマにかかげています。完読とは、最後まで飽きさせずに読んでもらうこと。一冊の本を読ませることと一本の記事を読ませることを同列にあつかうのは少々おおざっぱすぎるかもしれません。本が長距離走とすれば、ナタリーなどのウェブ記事は短距離走のようなところがある。使っている筋肉はおそらく違う。しかし、書かれたものに対する信頼面での読み手の期待は一緒ではないだろうか。目立たないが校閲は本来書き手からすれば作業プロセスのひとつ。おそらく媒体うんぬんの問題ではないんだろう。

ここでは取り上げませんでしたが、もちろん実践的な文章テクニックも3章、4章を中心にのっています。他人の文章も手直し(添削)してきた著者の推敲指南はどれも具体的。現場で書きつづけてきた人の生の声がここまで反映されたライティング本は、私の知るかぎりAmazon.co.jp: 20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書): 古賀 史健: 本以来じゃないかな。

コラムからナタリーのポリシーがもつ意味合いを知ると、タイトルにある「文章教室」以上の内容になっていると思うのは、きっと私だけではないでしょう。なんていうか、読みやすいわりに奥行きのある本でした。

 

唐木さんのこれまでのナタリー運営についての詳細を知りたい方は、下記サイトも参考に。
東京編集キュレーターズhttp://tokyo-edit.net/archives/31069454.html

 

「詫び訂」のあるサイトはなぜ信用できるのか?

 

あなたはネットでサイトの善し悪しをはかるとき、なにを拠りどころにしていますか。私はサイトの信用性をみるとき、「詫び訂」があるかどうかを判断のひとつにおいています。これからその理由を説明していこうと思います。

〇「詫び訂」とはなにか?

まず「詫び訂」とはなにか。それは間違えたときにいれる、お詫びと訂正のこと。よくある「お詫びして訂正します」という文言です。

人は間違える生きもの。たとえば文章を書いているときには、数字や固有名詞の事実関係で書き間違いや記憶ちがいなどがふつうにあります。見つかると慌ててしまいますよね。下調べをしていても間違うときは間違います。時間に追われているとその発生頻度はさらに高まります。

〇間違うことを前提にする

間違いに気づいたらどうすればよいのでしょう。大切なのは、それを認めること。しかし、なかなかできないものです。消したり、書き換えて知らん顔することもできますからね。正直にその都度訂正し、詫びを入れる。そして訂正したことの明示をしておく。もちろん明示すればいくら間違えてもよいということを言いたいのではありません。慎重になる姿勢とそれでも人は失敗してしまうものだという諦観の両方をもつということ。その意味でいえば「詫び訂」のあるサイトは、間違うことを前提にしているのではないかと思うのです。想定外のミスが起こることを想定内にしている。書籍や雑誌などの紙媒体では、そのへんとてもシビアです。この「詫び訂を入れる」という積極的な行為をウェブでおこなうとはどういうことなのか。おそらく謙虚さからくるもの。その謙虚さが信用する根拠となるのです。いちど冷静になれる場所で相手の立場に立ってみる。間違うことと間違いを認めないこと、どちらのほうがダメなのかを考えることが大切です。

「詫び訂」のあるサイトはなぜ信用できるのか。理由を覚えておいて損はないでしょう。

 

【うまれる/うむ】編集の現場から

この2つは使い分けが難しい。というか、明確に区別するとうまくいかない場合がある。それでも指針は必要だろうから、示しておきたい。基本、【うまれる/うむ】は、その表現が自動詞なのか他動詞なのかで使い分けるとよい。「〜が生まれる」「〜を産む」と書き分ける。ただし例外をもうけるようにもする。「赤ん坊が産まれた」「産まれた赤ん坊を抱いた」などの出産時の表現「産まれる」を許容範囲とし、「彼女は3人の子を生んでひとりで育てた」「(創作での)生みの苦しみ」などの出産現場からはなれた漠然とした表現「生む」もあることを知っておくこと(もちろん出産時本来の「産みの苦しみ」という表現だってあることも忘れずに)。

 

 

 

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【不信/不審】編集の現場から

似たものどうしのなかには、後ろに付く動詞でどちらか決まってくるものがある。【不信/不審】は、その典型。「買う」とあれば前には「不審」、「招く」が後ろにあれば「不信」のほうでなくてはいけない。「不審を買う」「不信を招く」となる。つまり、あやしまれているのか、信用できないのかで使う表現が変わる。あやしいという意味をふくむものには、不審者や不審物、挙動不審などがある。それでは「フシンカン」はどうか。信用できないという意味なので「不信感」が正解。「不審感」とはいわない。

 

 

 

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【例えば/喩え・譬え/仮令】編集の現場から

この3つのちがいは区別しておきたい。どういうときに、どの漢字をつかうべきか。まず「〜にたとえると」というとき、漢字は「喩え」か「譬え」をつかう。これを「〜に例えると」としているケースが多い。また仮定を強調するさいの「たとえ〜でも」というときも「例え〜でも」とするのは間違い。漢字で書くと「仮令(これで「たとえ」とよむ)〜でも」となる。なのでまとめると、一般的な読み手を想定しているなら、なにかの例を挙げるときの「例えば〜」以外は、ひらがなで書くのが無難かも。実際そうしている著者は多い。

 

今回の似たものどうしに関連して、下記では「例える」ということばの浸透具合について、すこし踏み込んだ記事を書いています

「喩える」にも光をあてて…という話 - 北原帽子の似たものどうし

 

 

 

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【身に着ける/身に付ける】編集の現場から

この2つ、使い分けている著者は多い。衣服・アクセサリー類は「身に着ける」で、学問・知識などは「身に付ける」としている。ちなみに、衣服は「着ける」、アクセサリー類は「付ける」で分けているひとはあまりいない。学問・知識を「付ける」にすれば、アクセサリー類は「着ける」になるということだろう。こまかい区別が面倒ならひらがな書きにして、すべて「身につける」にするとよい。

 

 

 

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