北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

【並/並み】編集の現場から

「並」と「並み」は、音が同じで表記も近いため混同されやすいが、意味と働きには明確な違いがある。ここで基本的な整理をしておきたい。

 

 

基本的な意味の比較

「並」は、「普通」「中程度の等級」「標準的な程度」を表す語である。「並の店」「並の才能」のように使うと、「特別ではない、一般的な水準」という意味になる。つまり、「並」は評価の程度を示す言葉。一方の「並み」は、「〜と同程度」「〜に匹敵する」という比較の意味をもつ。「大人並みの体格」「プロ並みの技術」のように、何かを比較対象にして、その水準に達していることを示す。

 

 

言葉の使われ方

 

・並の人間ではない

現在の実際の用法を見ると、「並」は評価する語として使われることがほとんど。たとえば「彼は並の人間ではない」という文では、「普通の人間の水準には収まらない」という意味になる。ここで重要なのは、「並」が「普通」という評価の程度を表している点である。

 

・人間並みの知性をもつ

これに対して「並み」は、比較対象をともなう。「彼は人間並みの知性をもつ」という場合、「人間と同程度の知性をもつ」という意味になる。つまり、「並み」は単独で評価を表しているのではなく、「人間」という対象に照らして、その程度に達していることを示している。

 

ちなみに、慣用的なものについても「人並み」「軒並み」「月並み」「家並み」など、すべて送りがなを入れる「並み」表記となる。

 

 

間違いやすい理由

両者が間違いやすい理由は、発音が同じであることに加え、「並の〜(名詞)」「〜(名詞)並みの」という形がどちらも連体修飾の組み合わせとして使われるためだろう。日常ではなんとなく区別されないことも多く、「並みの人」「人並の」のような表現も見かける。そのため、「普通の〜」という意味なのか、「〜程度の」という比較なのかが曖昧になりやすい。

 

 

間違いを減らすための対処方法

間違いを減らすには、評価の程度を言っているのか、それとも何かの対象との比較なのかを確認するとよい。「普通、標準」と置き換えられるなら「並」、「〜くらい、〜程度」と言い換えられるなら「並み」が適切である。たとえば「並の人間」は「普通の人間」と言い換えられ、「人間並みの知性」は「人間程度の知性」と言い換えられる。

 

 

おさらい。

 

「普通」に書き換え可能なら、送りがな不要の「並」

・彼は並の人間ではない(彼は普通の人間ではないと置き換えられる)

 

「程度」に書き換え可能なら、送りがなが必要な「並み」

・彼は人間並みの知性をもつ(彼は人間程度の知性をもつと置き換えられる)

 

小さな違いに思えるかもしれないが、この区別を意識すると、文章の質は引き締まり、使い分けの分かる人には理解してもらえるはずだ。

 

【離す/放す】編集の現場から

日本語には、読み方が同じで使う漢字が異なる言葉が多くあります。「離す」と「放す」もその一例です。使い方の線引きが曖昧である異字同訓なのですが、場面によっては使い分けが求められます。それぞれの基本的な意味を比較しながら、どのような使い方がふさわしいかを見ていきましょう。

 

基本的な意味の比較

 

離す:くっついている状態を分ける(separate

放す:対象を自由にする(release

 

「離す」は、「くっついている状態を分ける」という意味を持っています。たとえば、「私の手を離さないでね」といえば、「つないでいる手をほどかずに、そのままにしておいて」という意味になります。つまり「離す」は、何かをつなぎ止めている状態を解いて、遠ざけることに重点がある言葉なのです。

 

一方「放す」は、「対象を自由にする」ことを意味します。「お願いだから、放して!」というフレーズは、誰かに手首などを強くつかまれていて、それを自由にしてほしいと頼む場面で使われます。「放す」は、単に距離をとるのではなく、「束縛を解く」ことに重点がある言葉です。たとえば「鳥を放す」といえば、鳥かごなどから野生に解放するというニュアンスになります。

 

言葉の使われ方の現状

 

「離す」は距離をとる動作全般に幅広く使われるのに対し、「放す」は特定の文脈で使われることが多い印象です。しかし抽象的な意味合いを含む「手放す」や、「手綱を放す」のように人が何かを強くつかんでいる状況を解除する場合は「放す」が自然です。また、このようなケースでも最近では「手離す」「手綱を離す」と書く人も少なくなく、両者は混同されることがあります。編集実務の仕事上でも「離す」を「放す」に指摘する場合が多いです。どちらかというと「放す」のほうが馴染みの薄い言葉なのかもしれません。

 

間違いやすい理由

 

「離す」と「放す」が混同される理由の一つは、どちらも「つながっているものを解く」場面で使われるからです。たとえば「手を離す」と「手を放す」は、どちらも対象と手がつながる状態をやめることを表せるため、誤用に気づきにくいのです。しかし、厳密には「手を離す」には「距離をとる」というニュアンスがあり、「手を放す」には「つかんでいたものを自由にする」という意味が強くなります。

 

間違いを減らすための対処方法

 

おさらいします。

 

「離す」と「放す」を正しく使うためには、それぞれの言葉が持つイメージを意識するとよいでしょう。繰り返しになりますが、「離す」は「くっついている状態を分ける」、「放す」は「対象を自由にする」と覚えておくと、迷いにくくなります。

 

たとえば、子どもと手をつないでいるときは「手を離さないでね」、誰かに腕をつかまれているときは「お願いだから、放して!」が、ふさわしい使い方です。また、動物などを自然に戻すときは「放す」が適切です。

 

「手を放さないでね」×

「手を離さないでね」○(セパレートしない、の意味合いが強い)

 

「お願いだから、離して!」×

「お願いだから、放して!」○(リリースする、の意味合いが強い)

 

日常会話の中で使いながら、少しずつ言葉の違いを意識していけば、より正確な日本語の表現が身につくでしょう。

 

【迎える/向かえる】編集の現場から

基本的な意味

迎える:人や物事がやってくるのをこちらが待ち受ける

向かえる:相手がいる方向や物事のある方向へ進められる

 

現状

変換時に起こるうっかりミス。一般的に「迎える」の使用頻度が高いので、多くは「迎えて」と打つときに「向かえて」としてしまう。つまり「迎えて」がふさわしい文脈で「向かえて」にしてしまうケース。また、使用頻度が少ないながらも「向かえて」がふさわしい文面で「迎えて」にしてしまうときも、同様に間違いに気づきにくい印象です。

 

理由

「迎える」と「向かえる」は、「相手(or物事)/自分」と「来る/行く」という概念に関係する語です。上記の基本的な意味にあるように、このふたつのベクトルは逆です。ベクトルが逆なのに間違えてしまうのは、矢印の方向が違うだけで、大枠は同じ土俵だからですね。

 

対処

使い分けには、以下の2つのポイントがあります。

1. パターンを知る

2. ベクトルを意識する

 

具体的な使用例のパターンは、以下の通りです。

 

・「迎える」の使用例(~を迎える)

駅で友人を迎えてから車で一緒に行く予定だ

新年を迎える準備はできている

彼は野球人生のピークを迎えている

 

・「向かえる」の使用例(~に向かえる)

待ち合わせの約束をした友人がこちらに向かえていないらしい

事態は収束に向かえていると思っていた

病状がいい方向に向かえている感じがしない

 

おさらいします。異字同訓である今回の「迎える」「向かえる」は、入力変換するときに起こるのが特徴です。つまり手書きではあまり起こりづらいように思います。お互い間違った連想をさそう語として存在しているので、パターンとベクトルを意識して、うっかりミスを減らすようにしましょう。

 

【即する/則する】編集の現場から

基本的な意味

・即する:ぴたりとつく、あてはまる

・則する:ある基準や決まりに従う

 

現状

「即する」と「則する」は似た意味を持つ言葉ですが、微妙に意味合いが異なります。「即する」は、「ぴったり合う」というニュアンスに近く、状況や条件に適応するという意味で、「状況に即した対応をとる」「要望に即した商品を提供する」などのように使われます。一方、「則する」は、「規則や法則に従う」という意味で、基準に基づくことを指します。「ルールに則した」「先例に則した」などのように使われます。そして、今挙げた例からわかるように「即する」「則する」は、「即した」「則した」という表現で使われることが多いです。

 

理由

実際のゲラでは「即した」を「則した」に直すときがよくあります。これは注意したいのは「即した」の場合だということです。つまり「則した」がふさわしいところで「則した」を選べていないことを意味します。なので「即した」が出てきたら、文脈的に「則した」でなくてよいか、自分に問いかけてみてください。

 

対処

どちらの言葉も、文脈によって使い分けが可能です。例えば、「~にソクした社会生活を送る」という場合、「即した」と「則した」のどちらがふさわしいかは、前に置かれている文言によって異なります。例えば「現行の法律に」であれば、「則した」を使い、「自認する性別に」であれば「即した」を使います。

 

現行の法律に則した社会生活を送る

自認する性別に即した社会生活を送る

 

「即する」と「則する」は、ミスしがちな同音異義語の代表ではありませんが、気づきにくいペアのひとつです。しかし、使い方を間違うと誤解を招くおそれがある同音異義語、というわけでもありません。なので、使うときに恐れることはありません。うっかり間違わないように、それぞれの意味や出方のパターンを理解しておきましょう。

 

【逸らす/反らす】編集の現場から

基本的な意味

逸らす:別の方向へ向ける

反らす:弓なりに曲げる

 

現状

「逸れる」は、目的語をともなう「逸らす」のときにうっかりミスが起こりやすい。そして、それは身体の部位に関連する表現のときだ。また、「逸らす」がふさわしい入力の場面、変換候補で最初に「反らす」が出てもスルーしまうことがある。下記に列挙した中で「反らす」がふさわしいのは「背中を反らす」「体を反らす」、他は逸らすを使う。

 

視線を反らす(×)→視線を逸らす

目を反らす(×)→目を逸らす

顔を反らす(×)→顔を逸らす

背中を反らす(○)

体を反らす(○)

 

理由

一瞬なんだかみんな良さそうに感じるのは、「反らす」が身体の部位と親しい意味をもつからだろう。

 

対処

今回の同音異義語は、編集の実務作業での傾向でいえば、「反らす」を「逸らす」に指摘する機会が多い。逆の「逸らす」→「反らす」はあまり見ない。無理やり比べてみると、暮らしのなかで、何かを弓なりにする機会よりも、何かを別の方向へ向ける機会のほうが多いだろう。なので、「そらす」は「逸らす」をまず思い浮かべてほしい。

 

ここまで見てきて分かるように、「逸らす」と「反らす」では、間違った連想をさそう語として「反らす」が存在している。こちらが脇役。そして間違う傾向がある主役が「逸らす」のほうだと理解しておくとよい。実際に書いているとき、変換候補からの選択で選ばされていることを自覚できると、うっかり間違う場面は減るだろう。なお、気づいて直すときにどちらの漢字が適切か迷う場面は少ないので、ひらがなにする必要はない。

 

ちなみに今回のようなうっかりミスは、話が逸れて、ではあまり起こらない。話が反れて、だと身体の部位に関連しない表現なので違和感に気づけることが多いからだ。

 

 

7年たって「おわりに」を公開します

2015年3月に電子書籍『文章の手直しメソッド 〜自分にいつ何をさせるのか〜』をセルフパブリッシングとして出して、7年がたちました。これを機に本書の最後に添えた文章「おわりに」をブログ公開します。自分の編集実務を振り返ってメモにしているとき、ふと「本というスタイルで書いてみようかな」と思い立ったのがはじまりでした。ほぼトップダウンでよく書いたな、というのが現在の率直な感想です。(この本の当時の紹介記事はこちら)

 

 

 

『文章の手直しメソッド 〜自分にいつ何をさせるのか〜』おわりに

 

ライティングに関する本は世の中に数多くあります。しかし、文章づくりの実際の手順、完成までの文章に対する接し方について書かれたものを、私は見たことがありませんでした。ましてや執筆者や編集者向けではなく一般の人向け、たとえばブログなどの文字コンテンツを日常的に更新する人、仕事の手段で文章を書くような人に対して書かれたワークフローは皆無に思えます。

確かにそれは当たり前なことなのかもしれません。作業方法は見えませんし、二次的なもの、補完的なものととらえられがちだからです。しかし文章は、書く内容や表現だけをどうにかすれば良いものができるというわけではありません。ライティング術と同じぐらい、文章ワークの面でのプロセス理解が個人向けとして注目されてしかるべきだと考えます。なぜなら、成果物はもの作りの結果でしかなく、そこに到達するまでの時間、対象(文章)に対してどのような働きかけをしていくかが、最もわかりにくいことだと思ったからです。

また、一人で文章を完成させてみないと、どのあたりがしんどくて、どんなところに落とし穴というか盲点が潜んでいるのかということはわかりません。それを明らかにすることは、公私問わず普通に文章をつくるうえで、いかに有益なことかを知ってほしいという思いもありました。

一方で、「独力で完成させたという文章はどのくらいの完成度になるのか」を書き手は知るべきだろう、という気持ちも強くありました。詰めの甘さ、対象に寄せきれていない感は、一人ではどうしても残るものなのです。

自分のなかでの「出来上がり」は、文章本位でみれば完成とはいえないケースがほとんどです。その度に私たちは「どうなったら文章は完成といえるのか」という問いを、突きつけられるのです。

「自分で書いた文章を自力である程度の完成度にもっていく」と本書では繰り返し述べてきましたが、「ある程度」の意味合いを「ある程度までもっていける」ととるか、「ある程度しかもっていけない」ととるかはその人次第です。井の中の蛙大海を知らず。そう思い知ったとしたら、その思い知りは書き手をどんな方向に導くものなのでしょう。私にはいまだ計りきれないところがあります。

 

あなたがもっている知恵の実

「こういうときは、こうすればよい」というものを、何かしら人はもっていると思います。私の場合は、それが文章ワークの手順についてでした。ですので、本書を書いてみました。

「もう少しあんなふうにしていれば、こんなことにはならなかったはず」ということを前もって知っていることの大切さは、歳を重ねるほどみんな理解しているはず。しかしあらかじめ準備することを、毎日すべてのことについてできるわけではありません。人にはそれぞれ事情があり、優先しているものが違います。

情報としての知識だけが辺りを覆い尽くしています。日々流れるニュース、私たちは何を思えばいいんでしょう。おおざっぱにいうと、何かの当事者とそれを見ている呑気な他人で世界はまわっています。ずっとどちらかが続くということはありません。人が奥歯を噛みしめて黙り込むのを自分が見て、「他人の振り見て我が振り直せ」を思えることが、いつか何かの役に立つのかもしれません。

失敗などで知恵が身につくことも多いものです。多くの場合、それは教訓としてですが、後悔をした分だけ人の経験値は上がります。そのようにして知識は知恵となって初めて力をもつのです。そして、だれかに言われて自分がもっていた価値に気づくときもあります。自覚するか、指摘してくれる人が周りにいるか、どちらかでありたいものですね。

「誰でもできるけど、誰もまだやっていないもの」があったりしませんか。生きている人が各自ひとつだけでも、そういう知恵の実みたいなものを世界に発信しつづけたら何かが変わってくるんじゃないか、そう信じているのかもしれません。

好き嫌いを超えて、少しずつ有機的にむすびつき、そんなものが各地でまだらに存在し、時がゆるやかに包み込む。そんなふうになれば、私たち個人は焦らず生きられ、世界の社会はもう少し豊かになるのかもしれません。

 

 

 

 

 

「喩える」にも光をあてて…という話

世間に「例える」という表記が普通に使われるようになった経緯を少しさぐってみる。

というのも書籍の編集実務という仕事柄、「たとえる」という語の表記はずっと気にしてきた。何度ゲラに指摘してきたことだろう。普通の暮らしのなかでは「例える」が通常運転であることは承知している。大人になってからも「学校では『例える』でしか習ってきてないよね」という声を耳にする。確かにそうだよなあと思いをめぐらせつつ、これはどういうことなのだろうという疑問はいつもあった。

 

 わたしたちが使う漢字の読み方には音読みと訓読みがあり、これを音訓という。「新しい国語表記ハンドブック」(三省堂)という本で例という漢字をみてみる。音読みは「レイ」、訓読みは「たとえる」で、使い方には比喩としての「例える」「例え」、例示としての「例えば」が列記されている。配当学年は小学4年で、当用漢字表(1946年内閣告示)、常用漢字表(1981年内閣告示)の頃から運用されている字種である。

 2010年にはいわゆる「新常用漢字表」が告示された。196個が新しく加わり、このとき初めて常用漢字になった字種のひとつに「喩」がある。しかしこの漢字の音訓はなぜか音読みの「ユ」だけが載り、訓読みの「たとえる」は載らなかった(使用頻度の高い熟語である比喩の「喩」を常用漢字にしたかっただけなのか)。

 わたしはこの採用の仕方は社会に誤解を生むのでやめたほうがいいと感じている。それは「たとえる」の表記は「例える」がふさわしいと思ってしまう誤解である。テレビや新聞、ネット記事などで「例える」は使われていて日ごろ目にする機会は少なくない。またスマホやPCの入力文字の変換候補で最初に「喩える」「譬える」が出てくることもまずない。画数が多い漢字は自然と敬遠される傾向にある。常用漢字表は社会生活における漢字使用の目安を示す以上の役割を果たしていると思う。

 問題なのは「喩」がせっかく新常用で選ばれたのに訓読みとしての「喩える」が外されたこと。外された理由はわたしにはわからないけれど、常用漢字「例」に同じ読みの「例える」がすでにあてられていることが関係したのではと推測はできる。ただもしそうだとして天秤にかけたのなら採用するのは「例える」でなく「喩える」のほうではなかったか。なぜなら、あるものを説明するときに他の近しいものになぞらえるという意味の「たとえる」の表記は、本来「喩える」「譬える(譬は常用外の漢字)」のどちらかがふさわしいとされているからだ(日本国語大辞典の精選版では「たとえる」を引くと「譬・喩」で立項されていて「例」は含まれていない)。

 ちなみに「『異字同訓』の漢字の使い分け例」というものが2014年に文化庁から発表されていて確認してみる。ここには常用漢字の使い分けが用例とともに説明されているのだが、「たとえる」の項目はなかった。もしもここに使い分けとして「例える」と「喩える」が並んでいたりすると、それならなぜ喩の訓読みが載っていないのかということになるので音訓の取捨選択に一貫性はあるといえる(同じ意味で使うので使い分けの必要なしと判断したのだろう)。皮肉な言い方になるけど「喩える」を積極的に押さない状況はうまく整えられてきたともいえる。

 

 本末転倒な状況、つまり本来ふさわしいとは言いがたい表記「例える」が世間に浸透していることの経緯をさぐってきたわけだけど、調べてみてわかったのは古くは昭和のころからわたしたちは「例える」で来ていることだった。今に始まったことではなく新常用でも変わらないのを理解したのである。

 気持ちを切り替えると、課題はこれからどうなっていくかだ。というか、どうなりもしないだろうけど「喩える」の認知が上がらないまでも、「例える」だけでなく、ひらがな表記の「たとえる」が浸透してくれないかなとか、例の訓読みとしての「例える」は喩の「喩える」に譲り、例示の意味の「例えば」に専念させてみてはどうだろうかとか、いろいろ個人的に思うところはある。

いずれにしろ「例」「喩」ともに常用漢字の仲間である以上、今後も矛盾をかかえながらの状況は当分つづくだろう。