北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

「喩える」にも光をあてて…という話

世間に「例える」という表記が普通に使われるようになった経緯を少しさぐってみる。

というのも書籍の編集実務という仕事柄、「たとえる」という語の表記はずっと気にしてきた。何度ゲラに指摘してきたことだろう。普通の暮らしのなかでは「例える」が通常運転であることは承知している。大人になってからも「学校では『例える』でしか習ってきてないよね」という声を耳にする。確かにそうだよなあと思いをめぐらせつつ、これはどういうことなのだろうという疑問はいつもあった。

 

 わたしたちが使う漢字の読み方には音読みと訓読みがあり、これを音訓という。「新しい国語表記ハンドブック」(三省堂)という本で例という漢字をみてみる。音読みは「レイ」、訓読みは「たとえる」で、使い方には比喩としての「例える」「例え」、例示としての「例えば」が列記されている。配当学年は小学4年で、当用漢字表(1946年内閣告示)、常用漢字表(1981年内閣告示)の頃から運用されている字種である。

 2010年にはいわゆる「新常用漢字表」が告示された。196個が新しく加わり、このとき初めて常用漢字になった字種のひとつに「喩」がある。しかしこの漢字の音訓はなぜか音読みの「ユ」だけが載り、訓読みの「たとえる」は載らなかった(使用頻度の高い熟語である比喩の「喩」を常用漢字にしたかっただけなのか)。

 わたしはこの採用の仕方は社会に誤解を生むのでやめたほうがいいと感じている。それは「たとえる」の表記は「例える」がふさわしいと思ってしまう誤解である。テレビや新聞、ネット記事などで「例える」は使われていて日ごろ目にする機会は少なくない。またスマホやPCの入力文字の変換候補で最初に「喩える」「譬える」が出てくることもまずない。画数が多い漢字は自然と敬遠される傾向にある。常用漢字表は社会生活における漢字使用の目安を示す以上の役割を果たしていると思う。

 問題なのは「喩」がせっかく新常用で選ばれたのに訓読みとしての「喩える」が外されたこと。外された理由はわたしにはわからないけれど、常用漢字「例」に同じ読みの「例える」がすでにあてられていることが関係したのではと推測はできる。ただもしそうだとして天秤にかけたのなら採用するのは「例える」でなく「喩える」のほうではなかったか。なぜなら、あるものを説明するときに他の近しいものになぞらえるという意味の「たとえる」の表記は、本来「喩える」「譬える(譬は常用外の漢字)」のどちらかがふさわしいとされているからだ(日本国語大辞典の精選版では「たとえる」を引くと「譬・喩」で立項されていて「例」は含まれていない)。

 ちなみに「『異字同訓』の漢字の使い分け例」というものが2014年に文化庁から発表されていて確認してみる。ここには常用漢字の使い分けが用例とともに説明されているのだが、「たとえる」の項目はなかった。もしもここに使い分けとして「例える」と「喩える」が並んでいたりすると、それならなぜ喩の訓読みが載っていないのかということになるので音訓の取捨選択に一貫性はあるといえる(同じ意味で使うので使い分けの必要なしと判断したのだろう)。皮肉な言い方になるけど「喩える」を積極的に押さない状況はうまく整えられてきたともいえる。

 

 本末転倒な状況、つまり本来ふさわしいとは言いがたい表記「例える」が世間に浸透していることの経緯をさぐってきたわけだけど、調べてみてわかったのは古くは昭和のころからわたしたちは「例える」で来ていることだった。今に始まったことではなく新常用でも変わらないのを理解したのである。

 気持ちを切り替えると、課題はこれからどうなっていくかだ。というか、どうなりもしないだろうけど「喩える」の認知が上がらないまでも、「例える」だけでなく、ひらがな表記の「たとえる」が浸透してくれないかなとか、例の訓読みとしての「例える」は喩の「喩える」に譲り、例示の意味の「例えば」に専念させてみてはどうだろうかとか、いろいろ個人的に思うところはある。

いずれにしろ「例」「喩」ともに常用漢字の仲間である以上、今後も矛盾をかかえながらの状況は当分つづくだろう。