北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

7年たって「おわりに」を公開します

2015年3月に電子書籍『文章の手直しメソッド 〜自分にいつ何をさせるのか〜』をセルフパブリッシングとして出して、7年がたちました。これを機に本書の最後に添えた文章「おわりに」をブログ公開します。自分の編集実務を振り返ってメモにしているとき、ふと「本というスタイルで書いてみようかな」と思い立ったのがはじまりでした。ほぼトップダウンでよく書いたな、というのが現在の率直な感想です。(この本の当時の紹介記事はこちら)

 

 

 

『文章の手直しメソッド 〜自分にいつ何をさせるのか〜』おわりに

 

ライティングに関する本は世の中に数多くあります。しかし、文章づくりの実際の手順、完成までの文章に対する接し方について書かれたものを、私は見たことがありませんでした。ましてや執筆者や編集者向けではなく一般の人向け、たとえばブログなどの文字コンテンツを日常的に更新する人、仕事の手段で文章を書くような人に対して書かれたワークフローは皆無に思えます。

確かにそれは当たり前なことなのかもしれません。作業方法は見えませんし、二次的なもの、補完的なものととらえられがちだからです。しかし文章は、書く内容や表現だけをどうにかすれば良いものができるというわけではありません。ライティング術と同じぐらい、文章ワークの面でのプロセス理解が個人向けとして注目されてしかるべきだと考えます。なぜなら、成果物はもの作りの結果でしかなく、そこに到達するまでの時間、対象(文章)に対してどのような働きかけをしていくかが、最もわかりにくいことだと思ったからです。

また、一人で文章を完成させてみないと、どのあたりがしんどくて、どんなところに落とし穴というか盲点が潜んでいるのかということはわかりません。それを明らかにすることは、公私問わず普通に文章をつくるうえで、いかに有益なことかを知ってほしいという思いもありました。

一方で、「独力で完成させたという文章はどのくらいの完成度になるのか」を書き手は知るべきだろう、という気持ちも強くありました。詰めの甘さ、対象に寄せきれていない感は、一人ではどうしても残るものなのです。

自分のなかでの「出来上がり」は、文章本位でみれば完成とはいえないケースがほとんどです。その度に私たちは「どうなったら文章は完成といえるのか」という問いを、突きつけられるのです。

「自分で書いた文章を自力である程度の完成度にもっていく」と本書では繰り返し述べてきましたが、「ある程度」の意味合いを「ある程度までもっていける」ととるか、「ある程度しかもっていけない」ととるかはその人次第です。井の中の蛙大海を知らず。そう思い知ったとしたら、その思い知りは書き手をどんな方向に導くものなのでしょう。私にはいまだ計りきれないところがあります。

 

あなたがもっている知恵の実

「こういうときは、こうすればよい」というものを、何かしら人はもっていると思います。私の場合は、それが文章ワークの手順についてでした。ですので、本書を書いてみました。

「もう少しあんなふうにしていれば、こんなことにはならなかったはず」ということを前もって知っていることの大切さは、歳を重ねるほどみんな理解しているはず。しかしあらかじめ準備することを、毎日すべてのことについてできるわけではありません。人にはそれぞれ事情があり、優先しているものが違います。

情報としての知識だけが辺りを覆い尽くしています。日々流れるニュース、私たちは何を思えばいいんでしょう。おおざっぱにいうと、何かの当事者とそれを見ている呑気な他人で世界はまわっています。ずっとどちらかが続くということはありません。人が奥歯を噛みしめて黙り込むのを自分が見て、「他人の振り見て我が振り直せ」を思えることが、いつか何かの役に立つのかもしれません。

失敗などで知恵が身につくことも多いものです。多くの場合、それは教訓としてですが、後悔をした分だけ人の経験値は上がります。そのようにして知識は知恵となって初めて力をもつのです。そして、だれかに言われて自分がもっていた価値に気づくときもあります。自覚するか、指摘してくれる人が周りにいるか、どちらかでありたいものですね。

「誰でもできるけど、誰もまだやっていないもの」があったりしませんか。生きている人が各自ひとつだけでも、そういう知恵の実みたいなものを世界に発信しつづけたら何かが変わってくるんじゃないか、そう信じているのかもしれません。

好き嫌いを超えて、少しずつ有機的にむすびつき、そんなものが各地でまだらに存在し、時がゆるやかに包み込む。そんなふうになれば、私たち個人は焦らず生きられ、世界の社会はもう少し豊かになるのかもしれません。