北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

書いた文章を読み返すと、どんなことが起こるのか?

 

仕事柄、日々著者の推敲の過程を目の当たりにしていると、気づかされることがたくさんある。今回は、文章をつくるときは「できるだけ早めに取りかかろうよ」ということについて話してみたい。

 

時間がかかること、時間をかけること

まとまった文章が出来上がるまでにはふたつのしくみが動いていると、わたしは思う。ひとつは「書き手と文章」のしくみ(伝える内容をどのように表現するか)。もうひとつは「文章と読み手」のしくみ(品質をどのように担保するか)。

文章を一本仕上げるためには、どんなステップをふめばよいのか。一度に書き上げておしまいという人は少ないと思う。文章は一筋縄ではいかない。そこで、仕上げるまでのタイムラインを考えてみる。書く、寝かす、直す、整える。時間がかかる段階とはどこなのか。それはまず書くことだろう。もちろん、その人の能力、文章の落ち着き先としての媒体、そして書く文章量にもよる。同じように、直すときと整えるときも時間がかかる。書いた文章は自分の鏡となり、不思議と粗がみつかるものだ。読み返すたび、手直しするところがでてきて終わりがない。なんだ、全部時間がかかるじゃないかということになる。何にどれだけ時間がかかるかは、人によって環境によってちがってくるだろう。とても当たり前のことだ。

そこで視点をずらして考えてみたい。制作過程には、「時間がかかる」のではなく「時間をかける」段階というのがあると思えるからだ。それは文章を寝かせたあとの時間。書いたものを読む作業には注意力がいる。後まわしにしていた固有名詞などの確認も、ここでやる。はっきりいってめんどくさい時間なんだけど、不十分な確認作業では意味がない。もちろんまったく読み返さないのは論外だ。ていねいにひとつひとつチェックしていくことに価値がある。時間をかけること自体が大切で、ここでは個人の能力の有無はあまり関係ない。

さらに考える。そんな手直し時間はプロセスの本質的にはどんな意味があるのだろうか。

 

それは、書いていたときの理解を超える、ということ。

 

書いているときは常に次の行は存在していないが、読み返すときはすべてある。部分を部分としてとらえる段階から、部分を全体からとらえる段階へ。「何をどう伝えたらいいのか」モードから、「ここはもっとこうしたら伝わる」モードへ。この転換は日頃当たり前すぎて気づいているひとは少ないのではないかと思う。書く行為よりも読み返すという状態への対処で、文章はグンと成長するもの。読み返すことで、書き手なのに読み手の心境に近づける。そして言いたいことの輪郭をクリアにするように書き直すことで、伝えたいことが伝わるようになるのだ。その際にちょっとしたコツがあるので知っておいてもらいたい。

 

それは、文章をできるだけ削ること。

 

プロボクサーが試合前に減量するように、不要なことばを取り去っていく。まちがっても書き加えることが推敲の最終目的ではない。肉付け作業は、できれば寝かせるまでにやっておくことだ。ここはみんな勘違いしがちなところ。うまく書けるひとは削ることがうまい。書籍編集のワークフローでもそれをかんじる場面が多い。一方ここ最近、再校という整える段階になっても文章をたくさん書き加えてくる著者が少なくない印象もあるのだけど、これはまた別のはなし。

 

理解してもらうことはむずかしい

すこし整理する。プロセスのしくみのなか、直すことに時間をかけよう。そして文章量をへらすことを意識しよう。このふたつが、ここまでにわたしが言いたいこと。なぜそうするのか、理由を考えてみる。それは品質が保たれるからかもしれない。文章の信頼感ともいえるだろうか。文章量のほうはどうだろう。削るといっても、必要なものは削れない。残った言いたいことの重みが増すからか。読み手はまどろっこしい文章から解放されるだろう。

わたしたちは思いを文章にしたいという欲求から、まず表現のしくみに頭がもっていかれやすい。一方、プロセスは目に見えない。文章を書きはじめると、品質のしくみが抜け落ちやすくなる。あなたは書くことを、なんとなく進めてなんとなく終えてしまっていないだろうか。また、そうしがちなのはなぜだろう。

 

それは、書くことで読んだ気にもなれるからだ。

 

そして締め切りなどがあるせいで、見直す時間は省かれるのが常だ。だけど、それはまずい。見落としているミスがひろえない。頭でしっかり書いている時間帯ほど、勝手に誤記もおぎなってしまうから。このリスクを文章を書き慣れていない人に理解してもらうのは、けっこうむずかしい。確認に費やした時間は無駄になることがあるかもしれない。でも、それらは本当に無駄なのだろうか。代わりに得られるものがあるのではないだろうか。経験則から自分が当たり前だと思っていることだからこそ、むずかしい。いやいや、言わなくてもわかるでしょう、と言いたくなるのだ。だけど、同時にもう少しうまく説明したいとも思う。たとえば初めてのところに行くときは、少し早めに家を出たりしますよね。文章をつくるときも、いつも初めてのところに行くようなもの。不安がくる。この不安は謙虚さからくる、あっていいものだと思う。謙虚さが誠実さをうむ。そして誠実さは信頼感につながる。時間をかけるために、できるだけ早めに取りかかろう。とても当たり前のことなのだ。

書くことと読むことを区別すると、そのぶん時間はかかる。当たり前のことに落ち着くことで、この文章を読んできたひとの多くは落胆するかもしれない。「なんだよ、早めに取りかかろうかよ」と。しかし、本当はそう思うひとにこそ、わたしは今回のテーマを届けたかったんだ。地味にスゴイことを納得してもらいたかった。うーん、わたしが伝えたいことが伝わったでしょうか。とても大切なことだと思うので書いてみました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

*2016年10月8日 加筆修正しました

*2017年5月25日 加筆修正しました