5年たって考えていること
最寄り駅までの15分ほどの歩きで考えることがわたしをつくる。先月から会社は在宅勤務の日が増えて、通勤は朝の当たり前ではなくなっているけど、歩くことが大切なのは変わらない。手段ではなく目的のときもあるし、手段と目的を兼ねるときもある。自分にとって信頼のおける思考の湧き上がりの時間。
2015年に発売した電子書籍『文章の手直しメソッド: 〜自分にいつ何をさせるのか〜』について、3月に書く予定だった記事が5月になりました。ほうっておくと6月以降になりそうな不安がどこかにあったので、書くと決めて書きはじめる。完成してから(3年目に一度修正を入れる)5年たつ文章のかたまりを、しっかり最後まで読み返してみた。3時間ほどかかる。
細かい表現的な問題はおいておき、ここで挙げようと思うのはふたつの事柄でした。
序章、第1章の扱いについて
ひとつめは、構成や表現の技術面での課題。まずは序章。序章って概念の説明になりがちで、実際この本でもそうなっている。読み手に理解するための根気を強いている。最初から根気が必要だと読み進めてもらえないだろう。書き手としてトライできそうな工夫の方法はあるはず。←図で示すのはどうか?
次に第1章のテーマ「書く」について。文章を直すことについては専門だが、書くことについては素人同然だ。文章ワークの本をつくるという義務感が先行し、押しつけがましさ、性急さがみられる。次章に向けて断定的な物言いをするなら、理由づけをもう少し丁寧にしたほうがよい。→参考になりそうな文献を精読、内容を理解し、自分なりの問いを立てること。
書くときの時間感覚とその役割
ふたつめは、内容の深化に向けての課題。5年たった今の解釈だと、以下のような言葉を使ったとらえなおしになった。
・一度で書こうとしないほうがいいよね(第1章)(第2章)
・読み返すこともふくめて書くことだよね(第3章)
・文章には媒体にふさわしいかたちがあるよね(第4章)
しかし、おそらく初読者はこれらは「どういうこと?」となるでしょう。どういうことかの丁寧な説明が各章で必要で、それが納得できるロジックをもってなされているか。自分自身に向けて書いただけのような部分も散見するし、全体をとおして説明を補完する的確なたとえが足りない印象ももつ。→内容の深化に向けて、読み手に対する自身の姿勢もふまえ、自分なりの問いを立てること。
今回の再読での振り返りで思ったこと。漠然と自分に「こんなふうに思っていたんだ」という気持ちや気づきが湧き上がるのが理想。そのためには疑問からうまれた問いを立てること。もうすこし詰めると、頭で何かを考えるというよりも、頭が何かを考えさせられる機会を多くつくり、そのときのふっとした思い浮かびをなるべくその場で書き留めておく。大切なのは、そのときの自分の価値判断で取捨選択してしまわないことだろうな。何に価値が生まれるかは、そのときにはまだわからない。
そして今、わたしはかなり自由だろう。書いた本をきっかけに次の本の制作に移ることもできるし(焼きなおしなら、あまり意味はないけど)、いつでも書きはじめられるという気持ちをたずさえ、明日を迎えつづけてもよいのだから。
さらに5年後(2025年になる)、わたしはどんなことについて何を考えているのだろう、楽しみだ。
【聞く/聴く/訊く】編集の現場から
英単語で説明すると使い分けがわかりやすいので、以下に示します。辞書で確認すると、「聞く」の使い方は思ったより多くありますが、ここでは割愛します。
基本的な使い分け
聞く:hear(askを含む)
聴く:listen
訊く:ask
現状
「聴く」や「訊く」のほうがふさわしい場合でも、「聞く」が優先されがちです。編集の現場でゲラを読んでいると、「訊く」がうまく使えていないケースが少なくありません。もちろん「訊く」の意味で常に「聞く」を使ってかまわないのですが、そもそも尋ねるという意味の「訊く」ということばの使い方を知らない人もいるようです。とくに若い人ほど「訊く」の認知度は低い印象です。
理由
「聞く」が優先されてしまう最大の理由は、【訊く/訊ねる】の「訊」は常用漢字ではないからです。同音異義語は親しみやすさで判断してしまう傾向があります。また、「聞く」には「訊く」の意味も含まれているために、「訊く」を使いたいときに間違って「聞く」にしても通じてしまう、ということがあるかもしれません。
対処
区別するためには他の語があるのを知っていることが前提となります。「聴く」を選べないのは、うっかりミスな場合が多いかもしれませんが、「訊く」はどうでしょうか。考えてみると不思議なものです。意味的にベクトルが逆な二つのことば「(相手から)聞く」と「(相手に)訊く」が、同音なのですからね。使い分けたいときには、以下を参考にしてください。
・聞くと聴く
聞く:食事をしていると、(意識せずとも)音楽が聞こえてきた
聴く:(意識して、主体的に)音楽を聴きながら食事を楽しんだ
・聞くと訊く
聞く:人(から/に)話を聞く、~について聞く、~を聞く
訊く:人に訊く、~について訊く、~を訊く
*2020年3月15日、加筆修正しました
こうして誤記はひとつだけ残る(2)
前回から引き続き、編集プロセスからみた誤記が残るしくみをさぐります。
例えば、繁盛する飲食店の店員になった自分を想像してみます。営業時間の終わり間際にお客の入店を断るときがあるかもしれない、来てくれたひとに申し訳ないけど。再校の段階というのは、このときの状況に近い印象です。閉店前は掃除の準備をする段階でもあり、行列を捌いていた時間帯の初校とは違う心持ちでいる必要があると思うのです。
この切り替えがうまくいくと、再校で最後のひとつの誤字をさがせて、本を読むひとが一瞬目を止めることはなくなるはず。少なくともわたしはそう信じて仕事に取り組んでいます。これは編集段階に応じた作り手のスタンスの問題になります。
書き手が文章にできること
一方、執筆の段階でやれることはないだろうか。実際、ゲラになる前、原稿の状態からの影響も少なくないと感じています。つまり、出来上がった本の品質に関する疑問は書き手の意識で解消に向かうこともあるのではないか。品質よりも文章の内容に思考が集中しているときですが、ヒントはどこかにあるでしょう。とりあえず「完全原稿」「原稿整理」という言葉から見ていくことにします。
・対処方法
再校ゲラで最後のひとつの誤字をみつけられるような状態にもっていくためには、書き手は完全原稿(推敲のすべてを終えた原稿のこと)で作り手に託すことを前提にしたほうがよい。なぜなら、ここを曖昧にすると、本来の編集作業が後ろにずれ込むことになるからです。
最近はウェブでの小説投稿サイトなどが活況を呈していることもあり、目にする原稿のなかには自分で読み返していないのではないかと思えるものが増えた。やるべきことがおこなわれていないと、その分の負担を後ろのひとがしょいこむことになる。手を動かす作業のあとに目で見る作業が待っていることは書く側にも知っておいてもらうことが大切だと思う。文字量が多くなればなるほど大切で、もっというと、原稿整理の作業を前倒しして、書き手の意向を早めに取り込むことが有効です。役割分担の修正といえるかもしれません。なぜなら原稿整理はもともと編集の役割に含まれていたからです。これを少し変えていこうというわけです。
なぜ前倒しが必要なのか
ここでいう原稿の整理とは、ふりがなを付けたり(基準と頻度を決める)、字体を決めたり(複数の表記がある漢字を、正字にするのか、俗字のままにするのか)、表記を統一したりする(読みやすくするため、同じ語の表し方をそろえる)ことです。すくなくとも初校ゲラの作業前にある程度おこなわれていると、その本のあるべき姿の方向性が定まり、編集がスムーズに運ぶ(やらなくてもよかった作業を少なくできる)ことが多いです。
例えばウェブ連載の記事などでも、書き手と作り手が早い段階で表記の統一などに関するコンセンサスを取っておくことが望ましい。なぜなら連載をまとめて本にしましょうとなったときに、初校で原稿整理をやらなければいけない状況になると、再校で誤字をへらす作業がメインになる。そうなるとやはり本にしたとき誤字は残りやすいからです。というか、前述したように読者によってそれはみつかることになるわけです(みつかったその事実が、書き手や作り手に届くことは残念ながらほとんどありません)。
以上、自分なりの対処方法を2つ挙げてきました。今回さぐってきた課題への対処方法は、書き手と作り手が同一の場合でも変わることはありません。大切なことはプロセスの段階ごとに立ち止まり、完成を目指していま何をするべきかを考えることだと思います。前回の冒頭にしめした作家のつぶやきに応えられたかはわかりませんが、完全原稿を前提に初校の前にかならず原稿整理を行い、再校時に作り手の作業者がクロージングを意識してゲラと向き合うことで、完成品から明らかな誤字を根絶できる可能性は増すと実感しています。
こうして誤記はひとつだけ残る(1)
2、3年前になりますが、ある著名な作家が下記のようなことをつぶやいていました。
私の本、誤字がいつもひとつだけ残るのはどうしてなんだろうか…
編集実務という仕事柄、思い当たることもあり、このつぶやきはわたしの頭の片隅に残った。なぜいつもひとつだけ残るのかの理由はわからないけれど、そのしくみについてはいろいろと考えるようになった。今回は自分なりにその対処方法までをさぐってみます。
結論から先にいうと、いちばんの理想は、再校ゲラの段階で「最後のひとつの誤字をみつけられるような状態にもっていくこと」だろうと、いままでの経験から思う。少なくともそれを心がけること。
語られてこなかったプロセス上の課題
出版物に誤記が残る原因はさまざまあります。編集実務の面からは(予算不足や時間不足からくる)確認不足や寝かせ不足、直しまちがいや直しもれなどがあるけれど、ほかに忘れてならないのはそれぞれの編集段階における作業の仕方自体だと思う。初校での作業と再校での作業がもつ性格は違う。その違いを意識して取り組まないと、文章の品質面での完成に近づけません。
初校は誤字をへらす作業で、再校は誤字をみつける作業といってよいと思う。書かれたものは自他問わず、文章に新しい側面を見出すのは初校で終わりにしたほうがよい。欲張って再校でも初校と同じ意識で作業してしまうと、誤字をみつける作業は読者が負うことになるからだ。
詳細は後述しますが、自分で痛い目をみたりして意識的にならないと、文章本位の抑制的な振る舞いというのは身につかないように感じます。このことを作り手としての日々の取りこぼしから学んできたつもりです。自覚するのがなかなか難しいこの課題は、課題としていままであまり認識されてこなかったように思います。
再校の段階がもつ役割
・対処方法
それでは自覚するのが難しいなりにどうすればよいのか。前述で理想とした、最後のひとつの誤字をみつけられるような状態にもっていくためには、役割分担を明確にすることがまず必要であり、再校ではクロージングの意識をもつとよいのではないかと思う。
知的作業の対象が伝えたいことから伝わるものに舵が切られた時点で、細かい表現修正に対するあきらめが必要になることは知っておいたほうがよい。知識とか教養、好奇心を再校段階でも優先して作業するのは個人的には作り手の過信だと思う。初校の校正技術と違って、能力のあるなしはあまり関係がない。この段階、文章本位でもとめられているのは、俯瞰的な視点からの「つみとり」の知性である。
具体的にいうと、「あらたな疑問出し」「新しい表記の統一」などをしないよう心がける。つまり、基本なるべく新しいことには取り組まない。再校は、文章全体の状態を確認する最終とし、仕上げという位置づけで誤字や要らないものの「つみとり」に徹するのです。
再校の作業は初校と同じひとがおこなってかまいません。しかし同じようにやってはいけません。ここで初校と同じような取り組みを繰り返すと、さらに問題点を洗い出してマルチに捌く作業が発生してしまうのです。本づくりが終えられないのです(万が一、初校と同じような作業が発生するときは、このあとさらに三校が必要になる)。その結果、ひらがなのミスが本になったときまで残ったりするのです。「~しなければならない」「~であるにもかかわらず」など、日本語の文章にはひらがなが10個ほどつづくことも珍しくありません。読み返したつもりでも、熟語などの意味が濃い漢字のかたまりに目がいくので、ひらがなの誤字をスルーしがちになります。(次回へつづく)
わからない中で書いてみること
まとまった文章を先がわからない中で書くことがある。頭の中にはイメージやフレーズだけが浮かんでいる。このような状態からでもなんとか形にしていきたい。そんなときはどうするか。今日は、この「わからない中で書く」を受け入れてみる、というはなしをしてみようと思います。
たとえば、日記やブログを書くことを自分に課しているとします。日々の暮らしで起こることはそう真新しくないかもしれませんが、気持ちは一瞬一瞬移り変わります。これを一日毎、あるいは定期的に出来事というパッケージにするのには少しコツもいるでしょう。慣れも必要かもしれません。わたしの場合は、これに加えて「きちんと書かなきゃ」という義務感のようなものものっかります。しかし義務感が強まると途端にモチベーションは落ちます。自分の気持ちとの相談、書いている文章は気持ちに近いかどうか、表現の良い悪いや好き嫌いなど、細かいことを考えたらキリがありません。
わたしは学生のころ、頭の中のアウトプットの場面、うまく書きはじめられない問題は不安でしかなかった。そしていろいろ考えるのは好きなんだけど、それがかえって書き上げることをさまたげ、書くことを楽しめませんでした。途中で起こる偶然のひらめきによろこびを見出すこともなかった(そんなことがあるなんて思いもしなかった)。読むときは並んでいる文章を順番どおりに読むので、書くときも順番どおりに書くことは(仕方ないからと)自然なこととして受け入れていたのでした。ただ、その後もふしぎと自分の思考を探りつづけることに飽きもきませんでした。
そのようななかで、2016年前後にアウトライナーというツールがあるのを知りました(いまは実際に使うときだけでなく、「自身で手軽に途中を操作できる」と思える感覚自体が精神的安心につながっている)。まとまった文章を書くとき、最初はメモ書きみたいなイメージで、論理的な積み重ねは(とりあえず)考えなくてよいというのは、わたしの書き出すハードルを下げてくれたと思う。書くことは、ほかのもの作りと違い、もともと気持ちと直結しているので手直ししやすい、という利点があるのは最近になって感じていることだけれど。
文章の手直しといえば、よく思うことがあります。過程にあまり興味が向かない人が多いのはなぜか、ということです。ことばを打つ作業の場合、たしかに過程の課題が目に見えにくいですよね。打った文章の最新のものだけが常に文面に現れている状態だからでしょうか。たとえばメール。LINEの延長のようなかんじで無自覚に使っていると、入力操作や文のつながりに気を留めることは少ない。ある程度まとまった文章量になると課題解決のために読み返しがどうしても必要になる。しかし読み返しを習慣にしていないとミスに気づくことも少ないでしょう。
・文章は書くというより、作るもの
編集という現場にしぼって言えば、文章は書くというより作る感覚に近い。書籍制作の場合、思考の流れからのある程度の量の文章化は個人が坦々とおこなう作業だから、ほかの誰かに理解、指摘してもらうにはそれなりに時間がかかるもの。原稿、初校、再校と読み返しに人と時間をかけることで、書いた人の納得感や文章の品質が高まるしくみになっている。結果、成果物としての完成度が増すのです。作る感覚に近いというはなしは書き方や書く量にもよるので断定的な言い方はできないが、それは心がまえという言葉に落ち着きがちな理由でもある。
何につなげたいかというと、これからの人、とくに若い人たちには「わからない中で書く」ことを受け入れてみてほしいということ。文章を書き上げるのは容易いことではない。書き上げるまでのプロセスは手探り状態で、これが読書感想文やレポート課題、月次の報告書など、書くことが義務に近い文章だと、進みは鈍りやすいだろう。しかし自分に合ったツールがあれば「わからない中で書く」ことをスムーズにはじめられるのではないか。たとえば学生のときでも就職後でも、時間的な制約のなかで文章を書く機会は少なくない。制約のある中で自分にどうしたら書いてもらえるのか。人それぞれ書くときの「ふるまい」は異なるが、対応、対処の仕方は似てくるもの。「こんなとき、どうしてる?」「じつは私も」の共有できる世界。私の場合、あせる場面は確実に減った。先がわからない中で書きすすめるとき、順番どおりに書かなければいけないということはない。一度にうまく書こうとしなくてよいのだ。ツールひとつで、いわば「文章のたたき台」が作りやすい環境が手に入ると思えばいい。
・書き出せないときこそ
それでは「文章のたたき台」が作りやすいということは、どんな意味があるのだろうか。それは、そもそも「なかなか書き出せない」ときにこそ有効だということ。つまり、気軽に書き出せる気分が生まれやすくなるのだと思う。書きはじめる段階、誰もがさまざまな思いを抱えている。多くのことを一度に同時にやらなければいけないと思う心理がはたらきやすい。書くことに慣れていないと、いつも読んでいる誰かの文章と自分がこれから書く文章とのイメージ落差を感じることがあるかもしれない。文脈でことばの意味は変わるし決まってもくる。最終的には伝えたい内容が相手にうまく伝わる必要がある。人によって、もっといえば個人のなかでさえ、翌日、表現の解釈が違って見えることもあるだろう。書いた文章は今わかっていることが(振り返って)あの時点でもわかっていればと言ってもはじまらない。自分に合ったツールを自分の書く環境に取り入れていれば、いま挙げたような心配や前提は織り込みずみにできるでしょう。
わたしたちはなにかを文章で表現しながら、リアルタイムでそのなにかを自覚するのはどうやらできないみたい。気づきは決まって後からやってくる。なぜ先がわからない中で書くことを受け入れてみるとよいのか。それは「文章を作る感覚」というものを体験するにはもってこいの手段だからだ。
*2022年6月29日 加筆修正しました
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【進入/侵入】編集の現場から
取り組みへのジレンマ
何冊か本を書いた後で、私はそのアンチョコを作ろうと計画した。誤変換・誤用しやすい言葉をピックアップしてevernoteのノートにでもまとめておくのだ。結局その計画は頓挫してしまったわけだがーーそういう間違いに気がつくのは文章の校正中で、文章の校正中にはあまり他の作業をしたくないからまったく増えなかったーー、本書はまさにそのアンチョコとして機能してくれる。