北原帽子の似たものどうし

昨日書いた文章、今日の目で読み返す。にがい発見を明日の糧に。

デッドライン 〜推敲の終えどきをさぐる〜

それでは、4つのケースのうちの3つめです。文章についてプロセスが言えることは、いくつかあります。

 

ケース3.

時間的な制約がある場合で、文章を削れる

 

もの作りにおいては完成させることが大切です。修正しやすいデジタル環境にくらべてアナログ環境では粘れませんが、いい意味でそれが諦めになります。わたしはきちんと終えるためにこの種の諦めを使うことにしています。もちろん簡単に諦めることはできないので、削れる状態をつくることで自分を完成に向かわせます。そして削れる状態のときに実際に文章を削る。削りは削って終わりではなく、削ったあと、その文章を読んで終わりにする。完成する感覚を知ったプロセスは、本人に達成感をもたらします。まず、ここでの時間的な制約は完成に向けてどんなはたらきをするのか見ていきます。

 

なぜ時間的な制約があるとよいのか?

時間的な制約は気持ちへの揺さぶりを強めてくれます。時間を設定することで緊張が高まり集中し、はじまったカウントダウンで保留にしていた可能性を忘れさせてくれる。忘れさせてくれることが前進だなんて普通は理解しがたいでしょう。でもそうとしか言えない状況が完成に向けた後半のどこかで訪れます。

切り替えて前進を優先させる場面、時間的な制約をもうけないと完成しないなら、完成したものは不完全です。不完全でよいので、固めるイメージをもつことがポイントです。内容に輪郭が生まれていることに気づいたら、書きたい方向性や書きたいことの軸に意識をもっていきます。このようなプロセスのなかで時間的な制約は、出来上がるために何が削れ、何が残るかを自然に考えるしくみの一部になっています。

今回の「推敲の終えどきをさぐる」でも、書き上げるプロセスのなかに時間的な制約を取り入れています。イントロダクションを公開したとき、今回のケース3.は現在の文章量の半分ほどでした。イントロ公開を見切り発車することで、ケース3.前進の背中を押す心理的な立て付けにしました。書き足していき、現在の倍ほどの分量になり、他の場所への一部移動や軸のクリア化、削りの作業をへて、公開となりました。

 

ここで、削れることになぜこだわるのか自分なりにすこし考えてみました。というのも、文章を削ることで、それが読み手にマイナスにはたらき、誤解や混乱を生じさせてしまうことも十分考えられるからです。そういったことに留意しながら、読み手への信頼とはいわないまでも、向き合い方に思いをめぐらせてみたのです。これは編集実務という仕事での感覚でしかありませんが、著者校を終えたトル指摘が多い再校ゲラを見ると、わたしは少しうれしくなります。この著者は、この本を気持ちよく書き上げられそうだと思えるからです。読み手の理解を信じているというか、読み手の想像にゆだねているというか、そのようなことを感じることもあります。書きものは書き手だけでなく、(間接的ではあるが)読み手も関わりながら完成に至るといえるのではないか。それを生み出す手段のひとつが、削る行為なのかもしれません。

 

というわけで、このケースは推敲の終えどきです。ここでやってはいけないことは「削れるのに削らないこと」です。

 

次回「完成なのか終了なのか 〜推敲の終えどきをさぐる〜」と題して、ケース4.時間的な制約がある場合で、なおかつ文章を削れないときにフォーカスします。

 

操作のゆくえ 〜推敲の終えどきをさぐる〜

それでは、4つのケースのうちのふたつめです。プロセスがおしえてくれることが少なからずあります。

 

ケース2.

時間的な制約がない場合で、文章を削れる

 

どのようなふるまいに自覚的になるとよいのか?

執筆後半の手直し途中、デジタル環境でおこなう操作がメインの作業ではどのようなことを意識していけばよいのでしょう。修正するといっても、表現方法、内容の整合性、気づいた誤記などさまざまです。執筆前半と作業自体はそう変わりません。必要なものを足したり、いらないものを省いたり、細かいところでは、てにをはを直す、しっくりこない言葉を別のものに置き換える、あやふやな固有名詞を調べ、正確な表記にする。わたしは削りとそれ以外で区別しています。

書く内容によるかとは思いますが、キリがない手直しで文章を削れるかどうかは完成へのひとつの目安になります。例えば、自分の文章についてきちんと理解して書いているか不安になったときは、削ろうとしてみるといいです。理解していないと文章は削れないものだし、そしてもっと言うと、結果的に削りすぎてしまってかまいません。実際に削りすぎてみることで頭の中に変化を起こしやすくなるからです。例えばわたしはよりよい言葉が見つかったとき、あえて一文ごっそり削除してから入力します。そうするとなにか危機意識が発動するのか、わりとすんなり新しい一文がでてきたりします。大切なものの欠落に気づいたり、よりはまる言葉が浮かんだり、書きたいことの輪郭が決まってくる感覚があります。このとき埋め合わせた言葉は、足すというよりも輪郭への補いであって、手当てに近いものという印象です。もちろん削りすぎて元に戻すこともあります。やっぱりさっきのでよかったなとか、あれこれ考えている場面のほうが多いかもしれません。

 

元に戻すといえば、思い出したことがあるのでここで紹介します。修正したものを元に戻す(Undo)という行為自体の価値についてです。推敲が終えられなくて悩んでいるときにヒントをもらえました。結城浩さんの著書『数学文章作法 推敲編』からの引用です。

 

推敲を終えるタイミングが近づくと、修正後の文章を読み返しても、あまり改善されていないことに気づきます.「修正前の文章のほうが良かったな.修正前に戻そう」ということも多くなります.このように「修正してから戻す」ことが多くなってきたなら、それは推敲を終えるタイミングの目安になります.「少し修正しても改善されず、むしろ悪くなる」というのは、文章の品質が少なくとも局所的には最適な状態になっている証拠だからです.(第8章 推敲を終えるとき 8.4 推敲を終えるタイミング「修正してから戻すことが多くなってきたとき」)

 

デジタル操作で元に戻すのはよくあることでしょう。操作時は自覚的になるのがむずかしいので、元に戻すというふるまいの頻度を意識できる人はそう多くないかもしれません。もしかしたら無駄だと思う瞬間のひとつかもしれない。しかし著者が目安になると説明するように、推敲時に元に戻す回数が増えてきたということは、書きたいことの輪郭が固まり、出来上がりに近い状態を示していると思います。言葉や表現がふさわしい場所に落ち着いてきたととらえることができるからです。このなんでもないふるまいの往復に気づけるようになると、書き上げるときの不安や負担は軽減されるのではないでしょうか。

 

さて今回のケース2.では、これまで見てきたように時間的な制約がない場合でも手直しをして完成に向かえます。しかし、時間的な制約を自分に課していかないと完成には至りにくいものです。文章でなにかを表現する際、わたしたちはあまりに選択肢が多すぎる。キリがなくて疲れてしまう。ですのでとりあえずひとつ道筋を決めて書きすすめ、文章の状態を把握していく方法が自分としてはしっくりきます。そこでの時間的な制約は、地味だけど前進するのに有効な手立てになっています。

 

ここでやってはいけないことは「自覚できたことをそのまま放置する」ことです。

というわけで、今回のケース2. は推敲の終えどきが近いです。

 

きちんと終えられるにはどうすればよいか、次回「デッドライン 〜推敲の終えどきをさぐる〜」と題して、ケース3. 時間的な制約がある場合の文章を削れるときにフォーカスします。

削れない理由 〜推敲の終えどきをさぐる〜

それでは、4つのケースのうちのひとつめから見ていきます。プロセスがおしえてくれることが少なからずあります。


ケース1.

時間的な制約がない場合で、文章を削れない

削れないにも二通りあります。削り終えてもう削るところがないのか、寝かせが足りなくてまだ削れないのか、まずこの見極めは重要です。多くは後者のときに手が止まります。


・まだ削れない

考えていることを理解するためには、とりあえず頭の中の文字化を試みるのが手っ取り早い。理解するためには対象が必要だからです。たたき台をつくる意味はここにあります。文章にできないなら、箇条書きでもいい。そして、おそらくそれはみんな出来ている。推敲しているなかで削れないときは、なにかしら削れない理由があります。文章と本人の関係に理由があることが多く、推敲の最中はもちろん、直後も困難でしょう。思い入れだったり、こだわりだったりはその時点ではまず気づけませんから。そもそも手を加えてから時間がたっていないときは、なかなか削ろうとは思いません。

 

どうすれば削れる状態をつくれるか?

寝かせる→推敲→削れない→寝かせる→理解が進む→似た言葉や表現の区別ができる→文章に輪郭が生まれる→輪郭から外れたものは削れる

わたしは上記のような流れでプロセスを把握します。


削れる状態をつくるためには、ふたたび時間をおくことが大切です。推敲で修正はできても、自分で書いたものはなかなか捨てられないもの。わたしたちは書いてきた文章に「置く時間」を与えながら、ゆっくり自分の理解を更新していく必要があります。推敲する前と同じように、削りたいのに削れないときにも寝かせは有効です。寝かせることの目的はリセットすることなので、目の前の文章からいったん離れることがなによりも大切です。置く時間の代わりに新たに書き直すという方法も効果的です。別の環境で新たに書き直すと、自然と文章量を減らせます。

 

・自分はいまどこにいるのか?

推敲といっても、書き手としての思いが強い段階では文章量は増える傾向にあります。自分の気持ちに対しては関心が向いていません。書いた文章の状態を知ることができません。まだあれもこれもとよくばりです。このように、とりあえず必要そうなものを自由に集めているときはまだ執筆前半だと思ってよいです。足りないものを探すことから要らないものを探すことへの意識の変化で、初めて後半に入っているかの判断ができるからです。後半に入っていることは削れる状態であるための前提です。

字数が足りていても、方向性や軸が定まらないとなかなか終えられないときがあります。書いている最中は終えられない理由が何か自覚しにくいものです。そのようなときは方向性や軸のクリア化、作意が訪れるまで煮詰める必要があります。しかし寝かせた後、まだ書きたいことの本質がつかめていなくても、あせらなくてよいです。理解するときの思考自体が完成のほうへ向いているからです。

さきほど示した問い、「どうすれば削れる状態をつくれるか」をさらに突き詰めて、「何を明らかにすれば削れるか」を考えてみます。理解するときの思考は書いた文章を削るのにも適しています。もっと言うと、理解が進めば削れてくるのです。わたしの場合、以下の「寝かせる」から「削る」のあいだのプロセスを明らかにするイメージです。明らかにしようという意識をもつことでもオーケーだと思います。


寝かせる→理解が進む→似た言葉や表現の区別ができる→文章に輪郭が生まれる=方向性や軸のクリア化(ブレイクスルー)→輪郭から外れたものは削れる→削る→推敲の終えどき

といった具合にプロセスの先をもう少し把握します。


輪郭がはっきり見えてくると、方向性は決めるのではなく決まってきます。書きたいことの方向性のピークを何回か越えると文章は固まってきて、ほんとうのピークは書きたいことの「自分の理解」のピークだったと気づきます。


・削りに覚悟はいらない

寝かせることで削りやすくなる。削れることで完成に向かえる。ここで覚えておかなければならないのは、削りとは意識的な行為ではないということです(もちろん、無意識な行為でもありませんが)。つまり、削りたいから削るのではありません。削れるから削るのです。削れないときに削ろうとしても削れません。削除は追加するときと同じように抵抗なくできます。他人が書いたものに対するほどではないにしても、本人が書いたものの割に削れます。コツは削ろうとするのではなく、削れる状態を自分のプロセスのしくみのなかに用意することです。

みんな誰でも一度手にしたものは手放したくない。とはいえ、得られるかもしれない何かのために他の何かを手放さざるを得ないときがくる。そうしたとき、削るためにも他の可能性を少なくしていく覚悟が必要だと思うかもしれません。しかし執筆後半、完成に向けて前進するためには覚悟が必要になってきますが、削りに関してはこの心がまえは必要ありません。なぜなら削れるときは結果的に削れているといった状態に近いので、覚悟の有無は関係ありません。


というわけで、このケース1. はまだ推敲の終えどきではありません。ここでやってはいけないことは「時間があるのに寝かせない」ことです。

 

次回は「操作のゆくえ 〜推敲の終えどきをさぐる〜」と題して、ケース2. 時間的な制約がない場合の、文章を削れるときにフォーカスします。

推敲の終えどきをさぐる(イントロダクション)

観るともなしに映画『イコライザー』を観ていたら、困難と向き合う友人をデンゼル・ワシントンが励ますシーンで「完璧より前進(progress.not perfection.)」というフレーズがでてきました。

今回はこの「完璧より前進」が意味するものを考えてみました。まとまった文章を書き進めるにあたっても、折り返した後さまざまな壁が待ちかまえています。文章にとっての前進とはなにか? ポイントは3つあるように思います。

 

前進するための3つのポイント

・どうすれば削れる状態をつくれるか?(方法)

・どのようなふるまいに自覚的になるとよいのか?(操作)

・なぜ時間的な制約があるとよいのか?(完成にむけて)

 

わたしの場合、「いったん落ち着こう」で始まる書きものの後半、どのような心持ちなら完成へと向かえるのか。そのためにはどんな事柄を意識していけばよいのかをなんとなく考えています。

 

後半における前進とは?

後半は「書けるものは書かれたものの中にある」という心持ちで取り組みます。そして今日の新しい自分を、自分が書いた目の前にある文章にいつまで同期させるか? この問いは後半の推敲時に意識する重要な事柄のひとつです。なぜならコンテンツを完璧に仕上げることを念頭によくばりすぎると書き終えられないからです。わたしたちはこれから手にできそうなものはつかみたい。しかし完成させるという目的のためには、日々流れくる思いを文章に取り込みたいという欲求に背を向けます。

 書いておきながら興味関心の可能性を消していくことは、後退のようにもみえるから勇気がいると思います。それは諦めを含むものなので、書くことに慣れないうちからその一歩を踏み込める人は少ないでしょう。かといって書くことに慣れている人でも、いつも書きはじめはゼロからです。この種のさまざまなジレンマになかなか耐えられないので、書き上げることはしんどいと感じるのだと思います。

 不思議なことですが、文章は自分が納得できるまで時間をかければ良いものが出来上がるとはかぎりません。そして固めるともう戻れません。「完璧をめざすことを諦め、前進することに舵を切れるかどうか」が大切です。この完璧を求めることと前進を求めることの違いは知っておいて損はないでしょう。

 書きはじめたはいいが、書き終えられない。推敲の終えどきをさぐるなかで最も避けなければならないことは、「時間的な制約があり、なおかつ文章を削れない」というケースにおちいることです。

書く前の心持ちとして早めに着手することと同じくらい大事なのが、書いたあとに時間をおくことです。書きっぱなしのまま推敲せず完成とすることは可能かもしれません。しかし書き終えられたとしても、それは完成ではなく終了だと思います。 

今回は「文章は推敲の前に寝かせたほうがいいよね」というトピックはテーマの中心にはしません。推敲に入った先の話をしようと思います。

 

推敲の終えどきを見分ける目安は?

わたしが編集実務の経験則からいえる目安は「書いたものを固めていこうという段で、文章を削れるかどうか」です。削れそうなら推敲の終えどきは近いし、削れなさそうなら推敲の終えどきは遠いです。文章が削れるとは、書いた文章の不要な言葉を捨てられることで、本来の目的は文章量を減らせることです(編集実務では「トル」という指摘をする)。

 

これから説明するケース分類から、活かせそうなものを自分の書き上げるプロセスに当てはめてみましょう。

 

 今回は4つのケースを挙げます。

・時間的な制約がない場合

    1.削れない→寝かせる(関係の課題)

 2.削れる→手直し(表現の課題)

・時間的な制約がある場合

 3.削れる→推敲の終えどき(心理面の課題)

 4.削れない→仕上がり(完成)or お手上げ(終了)

 

次回「削れない理由 〜推敲の終えどきをさぐる〜」から、ひとつずつ見ていきます。

 

 

*2023年2月5日 加筆修正しました

時間をずらしながら書き上げる方法

自分に最後まで文章を書いてもらうのは容易ではありません。だけど、書き上げるプロセスの工夫で書き上がるかもしれない。たとえば一度に書けなくてもいいし、それがダメなことではないと思わせてくれる方法があってもいいでしょう。今回はそんな時間をずらす視点から、文章づくりのしくみを説明します。

 

書くことで点を線にしていく

「書く」「寝かす」「直す」「整える」の書き上げるまでのプロセス、どこの段階で自分に負荷と時間をかけていくのか。わたしの場合、それは直す段階です。とくにスタートが断片のとき、つまり最初はうまく文章にならないかなと思ったときは、書くという意識をスキップして直すことに気持ちをもっていきます。丁寧に直し作業をつづけてみると、書くことのしんどさは軽減されます(というか、直すことは書くことになります)。

 

書くときの文章はつねに部分です。文章は言葉を駆使してモノゴトの全体を説明することができますが、最初から書きたいことの全体であることはありません。自分で書いたものなのに目の前の文章が気に入らない。頭にあるイメージ以上に表現にこだわってしまう。理由はいろいろあるにしろ、しんどさのほとんどは書きたいのに書けないと思うことが原因でしょう。だけど一度に書こうと思わなくていい。効率的でないことは別に悪いことではありません。変わることを受け入れる感覚を知れた人は一度に書けなくても不安につぶされることはありません。そして思考の流れが硬直しだしたら、途中でやめていい。それはたとえ文章の途中でもかまいません。しかし、そのような心理状態にもっていくにはやはり何らかの工夫が必要でしょう。

 

なんのために時間をずらすのか?

そこで今回の本題、時間づらしを試みます。目的のひとつは、「きちんと確かめるため」です。読み返すことで、書いた文章の状態をていねいに確認します。ふたつめは「自分が書いた文章に、あたかも初めて読むような感覚を得るため」です。この感覚を手に入れやすくするために、離脱が必要になります。あとでこの「離脱」の話をします。

 

ここでいう時間ずらしとは、「文章を書いていたときから、時間軸をずらす」という意味です。つまり同じ時間の流れでは向き合わない。文章は逃げません。いつも応えてくれるとはかぎりませんが、求めれば迎えてくれる。そんな性質を利用し、時間をおいて再度ながめて、読んで、確かめます。書いているときの臨場感からはなれて読み返してみると、不思議なことに自分の文章のアラが見つかります。前後のつながり具合、内容の正確性やつじつま、細かな言いまわし、そして誤字脱字など、気になる箇所がみえてくるものです。

 

直すことで線をなめらかにしていく

文章づくりのしくみに時間の経過を意識的に取り込んでみる。時間をずらすこと自体が目的といってよいのかもしれない。しかし、時間をおいたあと、どのように手を入れていけばいいのか。わたしの編集実務の経験からいえることをすこし話します。仕事で目の前にあるのはいつも他人が書いた文章のかたまりです。わたしはいつも著者を直には知りません。よりどころは文章そのもの。著者が書きたい意味や意図、表現を、書かれたものから感じとって手を入れる。たとえば足りないところを足し、不要なところはトル指摘をする。手を入れる際、ためらいを感じることはありますが、文章に対する思い入れはありません。つまり、わたしは著者でないので、書いた本人のコントロールから離脱している状態です。

 

ながら作業に意味はない

ひとりで書き上げるときにも、この「離脱」状態にできるだけ近づける工夫をするとよいと思います。そのためには、まず「書く」時間と「読み返す」時間を分けます。なぜならきちんと確かめる際、ながら作業では意味がないからです。書いているときに確かめればいいじゃないか、そう思う人がおそらくほとんどでしょう。書きながら読むこともできるので読んだ気にもなります。しかし、それは読んだことにはなりません。離脱状態での読み返しで確かめられる感覚というものがあり、あるべき前提の抜けに気づいたり、ある箇所に対する必要以上のこだわりをやわらげたりします。

 

ここでは時間経過を利用した切り替えがカギとなります。自分の理解を更新するためには、たとえば下記の方法などが有効です。

 

・寝てから翌日読み返す

「文章を寝かせて~」と自分もつい使ってしまうフレーズですが、実際に寝かせるべきものは書いた本人の頭と身体です。疲れたから眠るという行為を優先できないケースがつづくときは考えたほうがいいでしょう。読み返すのは、できれば翌朝。睡眠で疲れがとれて新たな気持ちで向き合えるからです。文章にとってこんなにすばらしいことはありません。これで離脱状態に近づけます。

 

翌日読み返す余裕がないという状況では、今回の離脱状態のはなしとはすこしずれますが、次の方法が有効です。

 

・紙にプリントアウトして読み返す

文章の環境を変えてみます。テキストの器を別のものに置き換えることに意味があるので、たとえば文字がPC画面から紙の上に移る視覚的なリセット効果は絶大です。プリントアウトが難しいようなら、フォントを変えたり、ヨコ組をタテ組に変えたりするだけでもよいと思います。これらの方法をへて読み返すと、同じ内容でも新しいものという認識になるのかもしれません。

 

自分のいつものパターンと向き合う

全体を想像しながら部分を積み重ねる。書き上げたあとで最初から読み返す。読み返すと書き上がっていないことがわかる。そこで、さらに部分を手直しして最終的に文章を整えていく。この一連の過程のなかの進行具合は他人に説明する機会はほとんどありません。そもそも自覚しにくいものなので、うまく説明できないでしょう。しかし自分をよく観察していると習慣や癖から、イライラや行き詰まりだけでなく、さまざまな傾向が見えてくるはずです。わたしの場合、言いたいことのピークは書いているときよりも、読み返しているときにくることが少なくありません。時間がとれない状況でも文章環境を変えながら、それを待つことがよくあります。わたしはこれを個人的なパターンのひとつととらえることにしています。

 

まとめ

今回、時間をずらす視点から、文章を書き上げるしくみを考えました。パターンに気づき、自分に合った時間づらしの方法を手に入れて実行にうつすのは、書き上げるうえでとても重要な行為だと思います。

 

書き上がる文章にとって大切なことはなにか。

 

書いているときとは別に、確かめる時間をとること。さらにその時間が、書いたときの本人のコントロールから離脱している状態であること。

 

 

 

*2020年11月25日 加筆修正しました

 

 

 

下書きと清書 読書感想文の書き方(その2)

前回、生徒にとってもう少し書きやすい読書感想文の方法はないだろうか、という課題の提示で終わりました。今回、その先をつづけようと思います。

 

どのようなスタンスで取り組んだらいいのか?

漠然とだけど書きやすい方法を想像してみる。わたしが先生で自由に指導してよいとなったら、どうするかな。前回「なかなか書き出せない不安」とどう向き合うのかと書いたけど、向き合わなくていいのかもしれない。解消する方法を身につけることができれば大丈夫なのでは、と。

ゲラ(文章の手直し用に試し刷りしたもの)の束と日々向き合う編集実務者の視点で考えてみると、「一度に書き上げなくていいよ」ということは伝えるだろうな。なぜなら、書いた文章を一旦おくと頭がリセットされ、思考がはたらきやすくなるからだ。もの作りはブラッシュアップをへて完成に至る。文章も似たようなもの。翌日読み返すと印象が違ってくる。本の著者が文章を書き上げるプロセスにも、草稿(下書き)から完全原稿(清書)までの段階がある。「一度に書き上げない」というスタンスは、長くつかえて汎用性のある書き方です。

 

下書きの時間、清書の時間

そんなことを考えていたら、さきほどの読書感想文についての課題に落とし込むと具体的にどんなやり方がいいのか、なんとなく見えてきたものがある。気持ちと書き方の折り合いの問題。あきらめて固定化してしまう文章との関係。わたしだったら自分で書いた文章を書いたときと別のやり方や環境で読み返すように指導するだろう。この言い方だとわかりにくいか、つまり2回に分けて気分を変えて取り組もうということだ。

これからの学校の一様ではない状況を踏まえて、具体的にはこんなふうに選択できるようにしてみてはどうか。

 

教える側が紙ベースで管理する場合

・生徒は下書きに紙を使って、清書をPCで書く(プリントアウトして提出する)

・生徒は下書きにPCを使って、清書を紙で書く(手書きの原稿用紙を提出する)

 

教える側がデジタルで管理する場合

・生徒は下書きに紙を使って、清書をPCで書く(データをPDFにして送信する)

・生徒は下書きにPCを使って、清書を紙で書く(手書きをスキャン、PDFにして送信する)

 

日本語の文章は表意文字表音文字の組み合わせで成り立ちます。ピンとくる人はあまりいないかもしれませんが、認識するときに視覚的要素が強くでる傾向にあり、わたしたちの理解は文章が置かれている環境に負う部分が少なくありません。そのため目に映る際、紙ベースかデジタルかで同じ内容でも別物のような感覚が得られるのです。この感覚を、模索する過程で有効につかっていきたい。

 

感覚の手探り

下書きと清書の組み合わせ、学校でどのパターンを選択する際にも生徒は自分を取り巻くものと向き合うことからはじめなければならない。学校の環境や家族の事情もあるだろう。もしかしたら選べない状況にあるかもしれない(デジタル機器の使用が無理なら、紙で下書きと清書に分けるだけでもいいと思う)。

おそらく、どんな方法が向いているかを自覚する人はそう多くないだろう。いろいろ試してみてダメなら、自分の感覚に注目するのもひとつの手だ。とくに動作感覚や操作感覚。例えば日頃の自分の癖や使っているツールを振り返ってみるといいかもしれない。手書きが落ち着く人もいれば、パソコンでのキーボード入力やスマホでのフリック入力のほうがしっくりくる人もいる。

やり方が違うと感じたら、変えたり戻したりすればよいのだが、試行錯誤とは面倒なもの。つい他人の感情や自分の感情に流されたりする。他人が勧めるやり方が自分にとってもいいと思い込んだり、もう少しやり続ければ良さが実感できるかもしれないのに他が目移りしたりする。結果いらいら、もんもんとしたまま、なにも探り当てられないこともあるだろう。

 

「やる気」を支えるしくみ

みんな歳を重ねてももがいてる。繰り返しになるが、もがいてきた大人のひとりとして、とにかく文章は一度に書き上げなくていいんだと伝えたい。そうすることにどんな利点があるのか、少し踏み込んで書いておきます。

 

・書き出せない?

書き上げることに不慣れな時期、まずは下書きで順番など気にせずに、借りものの適当な言葉で書き出せるのは心理的にも精神的にも大きい。下書きと清書を分けることで、気が楽になり、不安を解消しやすくなると思う。

 

・書きやすくなる?

「文章を書く」とひとくちにいっても、その中身は盛りだくさんだ。思考から適当な言葉を見つけ書き出し、書き出した言葉を文章としてつなげ、つなげた文章を読み返して直していく。しんどさを感じるときも下書きと清書を分けることで、文章の環境を変えられるので気分転換にもなる。それで気分が良い方向に向かえば、自分のなかに起こる新しい変化に気づきやすくなるだろう。また、書いた文章の「ひとりよがり」を自覚しやすいことから、自分に問いかけたり答えたり、手直しが進めやすくなります。

 

まとめ

最後に考えてきたことを整理します。

読書感想文を書くこと、学校だけの時間にしないためにどうすればいいのか。個別性を無視しない取り組み方法を学校教育のしくみとして機能させるには、教える側がほんとうの意味での「考える読書」(前回、言及した話題「課題へのアプローチ」)を体現し、文章が書き上がる過程(前回、言及した話題「視点を変えてみると…」)を理解する必要があると思います。この理解を踏まえ、読書感想文を書きやすくする方法について、わたしなら教える際の指針を以下のようにしたい。

 

生徒に、自分にとって心地よいやり方や環境を探させる。

 

言い換えれば、思考を強いるのでなく、時間を与え、あれこれ工夫してもらうのです。それを受けて生徒は、模索する過程を通して見えないものの性質を見極めることが大切です。見えないものの性質とは、ここでは文章の書き上げ方の特徴のこと。日頃の感覚やふるまいに自覚的にならないことにはつかめないものです。書いた文章を、書いたときと別のやり方や環境で読み返す。この方法が、気持ちと文章との関係を見つめていくトレーニングになります。

下書きと清書に分けることを手段に、時間をつみかさねて文章を作ることができる。「考える読書」の実践を繰り返していければ、最初に書いて適当だった言葉も姿を変えていく。自身の気持ちに近しい文章となって目の前に現れる機会も増えていくだろうと思う。

そして、探り当てたやり方は自分特有の「ものさし」になり得ます。ものさしが生まれてくると、決めることが早くなったり、悩むことが少なくなったりします。歳を重ねて、それは文章を書くときの習慣の一助にまでもっていけるかもしれません。

 

 

 

*2020年7月18日、加筆修正しました

 

下書きと清書 読書感想文の書き方(その1)

何年か前に「文章と教育」という記事を書いた。この延長で読書感想文の書き方というものに関心が向いていた。今回はその書き方(今回最後のほうでは「書き上げ方」「やり方」という言い方になりました)のはなしを中心に、自分のなかでわき起こった考えの行方をさぐっていきたいと思います。

 

読書感想文をとりまく世界

感想文を取り巻く状況はどうなっているかと思い、ネットで「読書感想文」というワードで検索してみる。上位に出てきたサイト「青少年読書感想文全国コンクール」を開く。そのなかの感想文Q&Aで、以下のことを理解した。

・読む本について:電子書籍はダメで、紙媒体の書籍に限定した応募

・書き方について:原稿用紙に書くことが前提の応募

・その他:自筆(手書きのことらしい)での応募が基本(原則、ワープロなどを使ってプリントアウトしたものでの応募は認められない)

読書感想文コンクールの応募は、本を読むことと文章を書くことの2段階作業をへないと達成されない。さきほど理解したようにいろいろと制約もあり、ハードルは高い。

まあ、コンクールに応募するしないは置いておくとして、とりあえず理解したことをふまえて感想文の書き方を考えてみようと思う。例えば、このQ&Aのなかにでてきた「考える読書」というフレーズはなにかヒントになるかもしれない。実際書く段になると、どのようなことがしんどくなるだろうか。

 

さまたげているものは何?

書くしんどさの前に、書きたい気持ちがあるなかでの「なかなか書き出せない不安」とどう向き合うのか、このしんどさが先にある人もいるだろう。

授業で読書感想文などの作文を書かされたとき、よし書くぞと思い立ち、すぐ書き出せるものなのか。少なくともわたしは書き出すのに相当時間がかかるタイプだった。書く時間が決められて清書一回のプレッシャーがきつかった思いがある(消しゴムがあるから書いたものは消せるよねと言う人がいるけど、個人的にはそれとは別次元のことです)。

小学生の頃は書き方といっても、ただ良さそうなことが思い浮かぶのを待っていた感覚が残っている。自分が誰かに伝えたいことなどあるはずもなく、他人の見よう見まねで「~に感動しました」と書いていた記憶はある。

 

自分のなかの新しい変化

さっきのサイトに載っていた「考える読書」というフレーズ、どんな意味で使っているんだろう。確認すると前文にこんな表現がある。

「読書感想文を書くことを通して思考の世界へ導かれ、著者が言いたかったことに思いをめぐらせたり、わからなかったことを解決したりできるのです。(ですから読書感想文は「考える読書」ともいわれます)」

文章を書くとき、考えてから書く人もいれば、書いてから考える人もいるだろう。考えながら書くときもあれば、書きながら考えるときもあるだろう。考えることで思いをうながすことがあるし、思うことで考えが生まれることもあるだろう。正確には実際これらはグラデーションをもって行ったり来たりしているはずだ。

ひとつの感想文をみんなで協力して書くわけにはいかない。自分で決めた言葉をつかい独力で書く。さきほど引用したなかの「思考の世界」を、文字通り「思うことと考えることの世界」という意味だと解釈すれば、自問自答の時間だと置き換えられるだろうか。自問自答の繰り返しでひとつのことを思ったり、くらべて考えたりするからだ。ポイントはおそらく自分のなかの新しい変化に意識的になること。

本の著者はそう言ってるけど、自分はどうしてこう思うのか。自分が書いた文章を読んで新たなことを感じることもあるだろう。自分はこんなことを思っていたんだと、書いた文章から発見することもあるかもしれない。もちろん自分で書いたのに、何を言いたいのかわからないことや思っていたことと少し違うニュアンスになることもよくある。

 

視点を変えてみると…

生きている年数がまだ少ない時期、ことばの引き出しが少ないなかで、感じたことが思いに至り、さらにそこから言葉のふさわしい表現に到達するのに時間がかかる人も大勢いるのではないだろうか。

そもそも文章を書き上げるのに万人にベストなやり方は存在しないだろう。思考の過程は一人ひとり違うからだ。だったら書き上げ方も違っていいはずだと思うのは当然のことだ。しかし書かれる文章のほうからみると、その景色はがらっと変わる。

意識的な人は少ないかもしれないが、文章が書き上がるには完成するまでの過程がある。書いて終わりでなく、書いたものを読み返し直していくことで完成に近づく。読み返すと自分が書いた文章をより深く理解できる。その意識は長文になるほど必要だ。書く内容は人それぞれだろうが、文章完成までの書かれるステップは誰もみな同じようなものになる。つまり書かれたあと、直され、整えられる。

 

温度差、時間差のなかで

そういえば振り返って感じることだけど、学校で文章の作り方を教えてくれないのが不思議だ。作文を書かされる前に、トレーニングとして書き上げる過程を実践的に学びたかった。

いま働いていて、メール文を書いたり読んだりする場面で感じるもどかしさは、伝え方や伝わり方の些細な行き違いであることが少なくない。わたしの場合、例えば自分の気持ちを差し置いて、必要以上に急いで相手の気持ちをおもんぱかろうとしてしまうことがある。まずは自分の気持ちの整理をし、時間をおいて対処するだけで違うのに。

文章は、自分自身のなかで気持ちと書き方がうまくとけあうと良いものが生まれやすい。そこに温度差、時間差があるときは一方が追いついてくるまで待たなくてはならない。いつ呼応するかわからないときもある。小中学生、思春期ならなおさらだろう。

当時のわたしもこの2つの折り合いに気づけなかった。意欲があっても書き出せないのは、ただ書く能力が足りないと思っていた(実際そうだったと思うけど、それだけであきらめるのは違うと歳を重ねてわかってきた)。わたし含め、原稿用紙のマス目を気軽に埋められない人は一定数いるだろう。

 

課題へのアプローチ

このようなタイプの人、あるいはこのように感じるときの気分や時間感覚の個別性が、学校の授業では無視されてきたように思う。時間を区切られ追いかけられると、気持ちとの向き合いをあきらめてしまいやすい。これでは「考えない読書」になりはしないか。つまり、ひるがえってさきほどの引用の話題に戻すと、思考の世界を通して「考える読書」を謳うからには、模索する過程にも言及してほしいのだ。自問自答する過程が考える時間になる。考える時間があれば、自分の気持ちを整理しやすくなるだろう。例えば「~に感動しました」と書いたあとに時間があれば、「ほんとうに感動という言葉でいいのかな?」と自分に問いかけることもできるのだ。

わたしは学校教育の現状を知らない。しかし知らないからこそ言えることがあると思っている。現場では関心をもたれないだろう課題へのアプローチが、ストレートにできたりするからだ。

ここでわたしは、先生は生徒一人ひとりの書き上げ方にすべて対応すべきだと言いたいわけではない。学校では個別性を無視しない取り組み方法があるはずだと思うのです。もしかしたら、これは理想寄りのはなしなのかもしれないけれど。

というわけで読書感想文、もう少し書きやすい方法はないだろうか。次回は少し現実寄りなはなしをしてみたいと思います。(次回へ)

 

 

*2020年7月18日、加筆修正しました